4月2日 リトルの始まり。

4月2日(土) 今日はリトルの始まりについて書きます。

*結構いろんなところで話したり、書いたりしているので、すでに知っている方は、スルーっとしてくださいね。

リトルの始まりは、私が28才スガジャズダンススタジオに勤務していた時の事。
スガジャズの階段を一人の青年、寺沢さんがコツコツと靴音を響かせて上がってきました。
私「いらっしゃいませ」
寺沢さん「スガ先生はおいでますか?子供のミュージカル劇団を作りたいと思いまして、スガ先生にご協力頂きたいと思いまして」

ビビ〜ん。ミュージカル?子供? …。

きた〜〜〜〜〜!

私の直感が、すごい勢いで反応したのを今でも覚えています。
今までの人生の点と点が一気に一本の線になった感覚でした。
今から思い返しても、私の人生の中の一つの分岐点だと思います。

直感は常に私たちの中に存在していますが、それをはっきり意識した最初の出来ごとでした。


ここで少しだけ28才までの私について書かせてください。
(この下もよく喋るお話ですので、聞いたことのある方は、スルーでお願いします)

小6  宝塚のベルサイユのばらが空前の大ヒット
    塾の机の下で宝塚のプロマイドを眺めて先生に叱られ、全く受験に身が入らない。

中学生 なんとか土佐女子に入学し、中1は合唱部、中2から舞踊部(今のダンス部)で部活に専念。
    とにかくダンスが大好き。朝練→授業→部活 の毎日。

高1  劇団四季「コーラスライン」高知公演を見て、ミュージカル女優を目指す

高3  大学進学はやめて劇団を受けると言うと、父親に大反対され、家出。
    いの駅のベンチで母に「東京の大学に入って、本当に自分がその世界でできるか
    自分の目で確かめておいで」と説得される。
    とにかく東京へ行けばなんとかなると思う17才の千賀。(お花畑の世間知らずです)
    10月に受験を決めて、大学を探す。たまたま蛍雪時代?に特集されていた
    「玉川大学文学部芸術学科児童専修」を見つけて、学内の指定校推薦にも合格し、12月5日の推薦入試
    を受験。結局、大学受験の勉強は、1ヶ月半しかしていない。
    (本当に頑張ってる友達には、かなり白い目で見られ、ごめんねと心で手を合わせる)

大学  子供のための音楽、舞踊、演劇、美術、全てを網羅した内容のコース。
    とにかく楽しかった。好きなことをして毎日過ごす夢の時間の始まり。
    授業の児童劇を、都内の幼稚園や学校、青山の子供の城(今はもうなくなりましたが、都内の大きな児童館)
    で上演。子供たちがどんどん成長するのを目の当たりにし、演劇の力を実感する。
    しかし、私にはミュージカルスターという夢がある。
    とにかく、単身一人で上京したのだから、縁をつくならいとどこに何をすればいいかもさっぱりわからない。
    まずは、サークルか。と英語でというのは引っかかったが、ブロードウェイミュージカルを上演する
    English Theatorical Campany(TEC)へ入る。

    昼間は児童劇、夜はブロードウェイミュージカル、台本2冊を抱える大学生活を4年間走り続ける傍ら、
    先輩の鞄持ちをさせていただき、アングラ劇団、バレエスタジオ、俳優、プロデューサー、
    ダンスコンサートなどなど、いろんなシーンを見させていただく。

    いや〜〜〜〜〜面白かった。

大学卒業後 劇団四季のミュージカルより、演劇で子供の成長を育む演劇教育に魅力を感じるようになっていたので、
    劇団のオーデションは受けず、一度お金を貯めるために高知に帰ると決める。
    東京の満員電車に衝撃を受けたのと、とにかくここからは親のお金ではないことでやっていきたい
    という思いが強かったから。
    とにかくお金を稼げる仕事をということで山一證券高知支店に入社。証券レディとして、ガンガン働く。

就職  山一證券時代は、とても勉強になった。世の中は、バブル真只中。ワンレンボディコンでディスコで
    扇子ヒラヒラの時代。お札もヒラヒラ宙を舞う。今から考えると夢のような時代だった。
    初年度の冬のボーナスはなんと80万。よっぽどお金が余ってしょうがない時代だった。
    あとにも先にも、この頃が一番収入がありました。(苦笑い)
    毎月1億のノルマも意外となんとかなり、お金がどうやって世の中を回っているのか、
    お金が儲かる人と儲からない人、世の中にはお金以上に価値のあるものがたくさんあること、
    そんなことをお客様や上司から学んだ。本当にいい方に恵まれました。ありがたいです。
父との死別
    24才の夏の終わり。その日元気に出社した父は、社長室で心筋梗塞になり、あっという間に天国へ。
    結婚問題で喧嘩したのに、そのまま仲直りもしないままの別れ。後悔の嵐。
    若い私も母も、イカリが外れた船のように、あてもなくフラフラと風に吹かれるままに海原を漂うような
    日々に突入。
    そんな秋、高知市制100周年記念ミュージカルRYOMAが企画される。これを最後に結婚しようかと
    この企画に応募。進行役の乙女役をやらせていただく。
    そこで運営の出会い。「須賀先生」
    この方に出会わなかったら、今の私はありません。
スガ入社 
    母は父を失って心身を崩し、入退院の繰り返しの日々に。そんな中、スガ先生に声をかけていただき、
    かなり迷いましたが、一度しかない人生だからとスガジャズダンススタジオに入社、
    なんと27才の時。遅いスタートでした。
    (スガ先生は、最初営業で入ってとの事でしたので、それならできるかな、と入社を決めましたが、
     もちろん営業だけなわけがなく、いつの間にか、エアロビクスを教え、ジャズを教え、よさこいに
    携わるようになり、今に至るというわけです(苦笑い)

    回顧録が、長かったですね。ここまで読んでくださりありがとうございます。

そして、28才の秋、寺沢さんの一言で、立脇先生(バレエ)、スガ先生(ジャズ)、岡本光生先生(歌)と寺沢さん(演劇)の4名で「高知リトルプレイヤーズシアター」がスタートしました。
私は、スガ先生のアシスタントとして参加しました。もちろんスガ先生に、リトルに参加したいと
熱烈立候補致しました。
正直その時から、これは私のためにこの世に誕生するのだぁ〜と勝手に思っていたからです。
(本当におめでたい奴です。私)

オーディションには、小学1年生〜中学3年生まで50名を超える応募がありました。
みんな緊張の中でも、とても熱心にオーディションに向かって、一生懸命でした。
今だから白状しますが、全員合格で、スタート致しました。

のちに代表を務めてくれる岡林さんは、息子晃史くんの保護者として参加。
とにかく一番クレームの多い保護者さんでした。(^^)/
リトルで活躍中の里佳先生も1期生の一人です。
他にも、1期生は今だに「南国スーパー」のCMに出て、「新鮮、新鮮、美味しいおいし〜い」と歌っています。

それから第1回旗揚げ公演を目指して活動スタートです。その頃から勤労者交流館の体育館を使っていました。
当時はサンサイフ高知という名前。まさにあそこが、リトルのホームグランドです。

今年、劇団員のキッズさんが「千賀先生、リトルを作ってくれてありがとう」って言ってくれたけど、
その時、「こちらこそありがとう」と返事してしまいました。ごめんなさい。
気がとがめるので、今日はリトルの始まりについて書かせていただきました。

今日はここまでです。

長い文章を読んでくださりありがとうございます。

                                               合掌✴️千賀



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