私のソーラン祭 ③初めてよさこいをみた北海道の人々

私のソーラン祭
③ 初めてよさこいをみた北海道の人々

「鳩が豆鉄砲をくらう」

セントラル91の衣装を身にまとい4列に並んだ総勢100名あまりの踊り子達が、北の大地に現れた。

桟敷もない、観客と踊りの境もない。
まだ段差もないシンプルな8丁目ステージがあっただけだった。

大通り公園の両サイドな道路は、
日常の通行の風景が流れていた。

そんな日常の大通りに、3車線道路の公園側1車線だけ交通規制で車が止まった。

そこへ地方車が入り、その後ろに踊り子100人余りが並ぶ。

沿道の人々は、歩みを止めて何が始まるのかと踊り子達をみつめた。

街の人々は、「なんだなんだ」と
興味津々に集まってくる。

地方車の上に勢揃いしたあほんだら会の高揚した顔、顔、顔。

「ほんならいくぜよ」
と二本足ですくっとたち、包み込むような眼差しで踊り子をみつめる。

ほのおんちゃんこと池上志郎氏の掛け声が、北の大地に響きわたる。

ほのおんちゃん
  「よいやさー」
踊り子達
  「そいやー」

  「よいやさー」
  「そいやー」
 
  「よいやさー」
  「そいやー」

  「は!」

気合いが入った空気がみなぎる。
そこに、音楽が滑り込むように入り、
100人がいっせいに踊りだす。

みている人達の目は、みるみる大きくみひらき、口はあんぐりとあいた。
そして、踊りと一緒に体が動き始めると自然と手拍子がおこった。

それをみた踊り子達は、そりゃもう嬉しくて、踊りに力がはいる。

「ありがとう。」

よさこいを北海道の人は、どう思うろう。そんな少しの心配は、一気に吹き飛んだ。そしてとにかく嬉しくてたまらんかった。

それをみたほのおんちゃんが煽る。
「これが高知のよさこいじゃー」

さらに気合いが入る踊り子達。
土佐の誇りを胸に、さらにボルテージをあげて踊る。

躍動感溢れる音楽が、さらなる高みに、踊り子達を、あほんだら会を押し上げて、セントラル91の演舞は、北の人々の心を強烈にゆさぶった。

観客はさらに心躍らせて、歩道から身をのりだして、手拍子もますます大きくなり、その両手は、踊り子に届きそうなほどだった。

また、それが嬉しくて踊り子達のボルテージは、観客と一緒に盛り上がる。

そして、セントラル91の踊りは、街と一つになった。

長谷川氏の「感動」が北海道の人々に届いた。

まるで、ブレーメンの音楽隊の様に、
セントラルの地方車と踊り子達にあわせて、人の波が動いた。

始めて感じる絵もいわれぬ感覚。
何か新しい時代?が始まる予感??
心の奥の方からわいてくるワクワク感に体中が満たされていく。

嬉しくて、
ありがたくて、
友、仲間、人、街、大地、空
全てがキラキラ輝いてみえる。

こんな感動を体験できるなんて‼️

初めての北海道を踊った100名あまりの土佐人は、よさこいソーランの1回目を感動と感謝いっぱいで踊りきった。

言葉では、表現しきれない感動体験。

この感動が、人と人の心をつなぎ33年の年月とともに成熟してきたよさこいソーラン。

今日のよさこいソーランへと成熟させた気の遠くなるようなたくさんのよさこい人々の力は、すごい‼️

その人の心の結集によってできあがった素晴らしい文化だと思う。

本当にすごい‼️事だ。

今、この「すごい」は、世界へと広がっている。

なんと、とほうもない。



私のソーラン祭り ② 長谷川岳氏の登場

②長谷川岳氏 の登場

大きく物事が動く時、天に選ばれたキャスティングを感じる時がある。
長谷川岳氏は、私の中でそんな存在の一人だ。

91年の夏、長谷川氏のお母様が高知医大に入院されていてそのお見舞いに高知に来ていて
たまたまよさこい祭りを見て、セントラル91の踊りに出会ったという。

感動の稲妻が彼の全身を貫いた事は、用意に想像できる。

こんなにもエネルギッシュに若い人達が踊ってるなんて、凄い‼️

これを北海道でもやりたい。

北海道には雪まつりがあるが、春から夏にかけては、とくに大きいイベントがない。

夏を迎える前にこの祭りを北海道でできたら!!

長谷川氏は、北海道に帰ってすぐ友達に声をかけて約100名ほどの実行委員会を結成する。

長谷川氏の行動力は、すごかった。

午前中、北海道にいる長谷川氏と電話で話したのに、15時には高知で会ったり。
どこでもドアの持ち主ではないかと思うほどフットワークが軽かった。

当時、高知県庁で高知県知事橋本大二郎氏の出待ちをして、知事がおでかけになる時に、企画書をもって知事に直接直談判したエピソードもある。

それから、よさこい祭りを実現するために、よさこいの紹介を録画したV H Sのビデオを100本以上作り、
自転車の荷台にのせて企業をめぐり始めた。

よさこいのよの字も知らない北海道の人によさこいを紹介するところからやるわけだから、想像しても気が遠くなる。

しかし、長谷川氏の想いは、それ以上に熱かった。
そして、その実現力は神がかりだった。

協賛金を集め、道路を使用するために行政や警察、いろんな所をまわった。

8月に感動して次の6月に開催するのだから、正味10ヶ月あまりしかないのに、物事はあれよあれよと動いていった。

当時の高知県知事、北海道知事、議員のみなさん、マスコミの方々、企業の方々、たくさんの人が長谷川氏の熱意に心を動かされて行った。

「よさこいソーラン祭り」
1992年6月13.14日開催
それは、たくさんの人々の手でどんどん形になっていった。

そして、本番を目前にした数ヶ月前、あほんだら会(セントラルよさこいのプロデュースチーム)に招集がかかった。

須賀先生が留守の為、先生の代わりに私がその会に参加した。

あほんだら会は、まだ20代の私にとっては、最高に緊張する場所だった。
みなさん、起業家としてセントラルに関わる社長の集まりで、皆さん優しくていい方達ばかりだとわかってはいるが、愛想笑いなどしない本物の横顔は、若い私には尊敬してやまないが、全てを見透かされている様な緊張感が漂い、
かなりと怖い空間だった。

ドキドキして座っていると、長谷川氏の顔が見えた。

なにがあるのかと思っていたら、彼がいきなり土下座をした。

「一生懸命、お金を集めたのですが…。運営費まではなんとかなったのですが、
セントラルチームの皆さんを招待するまでには、足りませんでした。
 でも、セントラルなしでは、よさこいソーランができません。
セントラルさんあっての祭りなんです。
なしでは、やる意味がありません。
費用はありませんが、どうか北海道へ来ていただきませんでしょうか。
お願いします。」

深く長い沈黙がながれた。
山本文吉社長は、腕を組んだまま黙った。
あほんだら会はじっと山本社長の言葉を待った。

山本社長
「全部でどのくらい費用がかかる?」

あほんだら会
「交通費、宿泊費、地方車の運搬、もろもろざっくりですが、1500万〜2000万くらいでしょうか」
(実際は、3000万近くにも膨れ上がったという)

山本社長
「踊り子さんに、少し負担してもらうのは、どうやろう。須賀先生は、どうやろうかね。」

当時、須賀先生は、「県外遠征に踊り子がお金をだしていくのは、筋が違う。」
とおっしゃっていたので、「そう言うと思います」
と答えた。

山本社長「そりゃそうじゃ。踊り子さんに頼むことではないね」

今は、踊り子さんが交通費を負担していくのが普通になっていますが、当時はそんな時代ではなかったし、
遠征自体も今ほど多くもなかった。

また、長い時間が流れた。
「どうなるろう。」山本社長の一言に全員が集中した。

そして

社長は、静かに
「わかった。行こう」

と言った。

この瞬間がよさこいソーラン祭りが実現した瞬間だったかもしれない。

若い私は、歴史が動く瞬間?
何かが大きく動き出した事を肌で感じていた。

心底「すごい」と思った。

人の思いが事を動かす瞬間に立ち会えた感動で体か震えた。

でもこの「すごい」は、それからの時の流れの中で、ほんの始まりでしかなかった。





私のソーラン祭り ① 誕生

私のソーラン祭

①誕生
その日、須賀先生は、疲れた体になんともいえない充実感に包まれた表情でスタジオに帰ってきた。

「千賀、もう私は、満足やき。
これでよさこいやめてもえいばぁや。
みんなほんとうに一生懸命練習してくれた。もうなんも言うことない。
私は、幸せや。」

先生があんなこと言うなんて。今年のセントラル、どんなにしあがったがやろう。
セントラルとは違う別のチームを担当していた私は、ほとんどセントラルの稽古には行けなかったので、想像を膨らますばかりだった。

先生の言葉とその時の嬉しそうで、ほっとしたようななんともいえない表情は、30年以上たった今もはっきり思いだせる。

その頃、わたしは須賀ジャズダンススタジオに入社して3年目を迎えていた頃だったと思う。

私は、初めて振付させてもらったチームの練習を終えて、力がぬけてスタジオで片付けをしていた時だったと
記憶している。

1991年の夏、この年から前日祭(今の前夜祭)が始まった。

この年の冬には、高知初子どもミュージカル劇団高知リトルプレイヤーズシアターも産声をあげる年でもある。

1991年は、ふりかてってみると、いろんな意味で始まりの年だったのか。

夏のよさこい本番が大盛況で終えた12日の朝刊に、セントラルチームの事を書いた記事がでた。
「初めて踊りに心動かされるチームをみたと高評だった。」
めちゃめちゃ、嬉しかった。
心の中で、やっぱり須賀先生は、すごい!と誇らしく思った。

今年の振りは、今までとは違う!と感じていたのは、振付の時からだった。
「ここで大きくお客さんをみながら歌います。」
???歌う???

新しい!と思った。
ミュージカル大好きな私は、思いっきり足を2番にひらいて、「高知の城下へ来て見いや」と叫び歌った。

音楽も当時のよさこいの楽曲の中では、際立っていたように記憶している。
グルーピング、のりがいい。
当時 M Cハマーとかが流行っていた。
踊りの世界にもストリート系が誕生し、ランニングマンなど新しいスタイルが登場していた。

早々とセントラル91には、ランニングマンも入ってるし、首をひねって踊るのも入って、
その当時にしては実に新しかった。

衣装は、着物で作ったいろんな柄の半纏に帯をしめた。反物は、B反と言われるものを京都で先生が選んできた。
B反といえど、本物の着物生地でつくるのだからなかなか高価なものになった。
1反で2着のハッピができた。
同じデザインで全員が違う柄。
「遠目でみたら紫陽花の花が咲いてるみたいで素敵」
と、当時のお客様のインビュー映像が記憶に残っている。

そんなチームなかった。
須賀先生のセンスとアイデアが光った。時代を動かした須賀先生の発想力がそれまで以上に大きく花開き始める、
そんなエネルギーを感じて鳥肌がたった。

それから少しして、セントラルのスタッフさんから、セントラルの演舞をみた北海道大学の学生さんが、
北海道でよさこいをやりたいと挨拶があったとの連絡がきた。

長谷川岳氏、当時北海道大学の2年生。さわやかで、並外れた行動力と、紳士なハート、人たらしな甘えん坊の所も
もちあわせた、若さ弾けるスーパーヒーローが土佐人の心をつかむのに、時間はかからなかった。



「夢源風人」という名前

2013年のご縁をいただいた大阪のよさこいチーム。
今年で、10回目の振り付けを作りました。

振り付けを作る前からこのチーム名を高知本祭で見た時、
チーム名が妙に気になったのを覚えています。

夢の源 風の人…。

夢の源ってなんだろう。夢が湧き出るところ。
夢のsource。夢の元…。

夢って源ってどこ?何?夢はどっからくるの?

実は、出会う前からす〜っと思い出すたびに考えていました。

はい、答えは全くわかりません。それぞれが出す答えがきっとあるような…。
正解ははっきりわからんけど、生まれてくるものが正解のような…。
そんな事だと思います。

私なりに考えた答えは、

夢の源は、私たちの心の源から湧いてくる想いじゃないか?
心を魂と捉えると、魂が永遠と持っている想いの元。
宇宙のsource。
それは??? 「愛」??? なのか???

「愛」と言えば思い出すのは、須賀先生。
そして「そこに愛はあるんか」と大地真央さんが叫ぶCM。

私の師匠である「國友須賀」先生は、まさしく「愛の人」でした。
人も地球も宇宙も全てを愛した人でした。
肉体がなくなっても、そこらじゅうに須賀先生の「愛」を感じられる。
須賀先生は、永遠に生きていると教えてくれる。
人は、肉体を失っても魂は死なないで生き続けると教えてくれます。

「愛だ」「ありがとう」と地方車から叫んでいた須賀先生の想いが
すこ〜しだけ、心に染みるようになったと感じる昨今です(まだまだですが…)

効率化や合理主義を第一に考える思考が蔓延しているようにも感じる現代、
「そこに愛はあるんか!」と叫びたくなることもしばしば。

「愛」ってなんだ?
身近なところから、哲学的な観点から、浅はかな知識を駆使して一生懸命
考え、心にも聞いてみた。


「愛」は、宇宙を貫いて一本軸となるものだと感じています。

その「愛」こそが、夢の源なんじゃない?と実感しています。

夢の源 =「愛」と考えてみる。

一方、「風人」
風人だけをググるとその意味は、風流を好む人と出ますが
「かじぴとぅ」と読むと、自然と共に生きる人、思いやりの心を持つ人
と出てくる。
「かじぴとぅ」は西表島方言の発音。自然とつながって、本来の人の生き方を取り戻す言霊。

と出てきます。

「愛」「自然とつながり、本来の人の生き方を取り戻す」

うあわ〜、すごいチーム名だ!!

命名した方はどんな想いでつけたのかな。
改めて聞いたこともないので、今度聞いてみよう。

チームのみんなは、そこまで深いこと考えてよさこい踊ってるわけでは
きっとない(考えていたらごめんなさい)と思います。
純粋に楽しいからだと思います、(そうだよね、夢源の皆さん)

それはさておき、
名前は、それぞれエネルギーを持っていますね。

こうして名前を読んでみると「夢源風人」って奥深いな。
そう考えてみると、今年の演舞には、なんとなくそんなエネルギーを
感じることができます。
そう思ってみている私の脳や心のなせる仕業か?

言葉にはならないのですが、なんとなく心があったかくなる。
踊ってるみんなの表情や、よさこいを楽しんでる感じや、
みんなと一緒にいることの充実感を感じる。

いろんな「愛」が たくさんの「愛」がほんわかとそこにあるのです。

夢源だけでなく、私が振り付けのご縁を頂くチームは、どのチームも
心があったかくなる。
みんなそれぞれのチームで切磋琢磨して、成長していく姿は本当に感動です。
感動して幸せ実感して感謝となる。

そんなよさこい、いろんなチームとこれからも一日でも長く続けていけたら
幸せです。

皆さん、自分のチーム名、もう一度深く考察してみてはどうでしょう。

そこに何か大切なものが隠れているような気がします。
疲れたり、凹んだり、いろんなことはあるけれど、こうやってみんなと
一緒に踊っていられることの幸せと感謝と感動が、きっとあると思うのです。

名前ってすごいね。

今日も読んでくれてありがとう。

千賀




リトル感謝祭 〜みなさまのおかげさま〜

28,29日の翌日の30日リトル30年の節目に感謝祭を開催しました。

目的は、何より、30年分のありがとうを伝えたい。
そして、代表のバトンタッチ。
そして、公演お疲れ様 
の盛りだくさん。

公演翌日なんて、本当に無謀です。
でもこの日でないと卒業生は東京へ行ってしまう。
どうしても年度内にやるしかない。

みなさんに無理をかけてしまいましたが、
みんなが一番集まりやすい日はもうここしかないと強行突破でした。

本当に無理をかけてすいません。そして、ご協力ありがとうございました。

公演も感動でしたが、感謝祭もさらに大感動。

本当はご案内したい方がたくさんいましたが、
リトルっ子を主役にと私の呼びたいたくさんの方には、
心で手を合わせながらの開催となりました。

応援してくださったライオンズの皆様、支えてくれた友人、スタっフ、
OB OGとその保護者、そして現役のリトルっ子と保護者の皆さん、

みんなの笑顔を見ているだけで、ありがたくてありがたくて、言葉が出てきません。

皆さんと出会えて一緒に過ごした30年を振り返る時間は、
心がタイムマシンに乗ったようにいろんなシーンを瞬間移動して、
懐かしくて嬉しくて胸がいっぱいです。

リトルを卒業しても帰ってきてくれたみんな、
帰って来れなくても、それぞれのところからメッセージを送ってくれたみんな。

みんなで何かを作り上げる。多様化の社会、みんなで一つを体験するシーンは
私たちが子どもの頃より少なくなっているように思います。

リトルは、変わらずみんなで一つのことをやり続けてきました。
子供の成長を目的につっぱしってきた30年でしたが、
実は私たち大人も成長する場となっているのだと改めて実感します。

アウトプットは最高のインプット。
教えてるつもりが、教えられてる。
リトルはそんな場所になっていました。

幸せにはコツがある。そのコツをミュージカルだったら伝えられる。
そう思ってミュージカルをやってきました。それは間違いじゃなかった。
自分の信じた道を一生懸命歩いたら、初めて生かされることを実感できた
と感じています。

60年かかってやっとです。(苦笑)
全ては、自分自身を誤魔化さず、素直に、一生懸命に生きることなんだと。

「お天道様はみゆうきね」おばあちゃんに言われた言葉です。
「おばあちゃん、本当にそうやったお天道様はちゃんと見てくれよった」

この感謝祭、本当は、もっとプログラムいっぱいありました。
特にOBとOBのダンスやパフォーマンス。

私が乗っけから喋りすぎたために、時間オーバー。
台本を作ったOBたちが急遽自分達の出番をカット。
本当に最後までごめんなさい。

何があっても、全体をよく見てしっかり仕上げてくれたOBOG達。
その成長ぶりにまたまた感動。
みんながそれぞれの場所で、素敵に活躍してくれていることが私の誇りです。
リトルの5つの合言葉を今も自然とつぶやくみんなが愛おしい。

素晴らしい感謝祭になりました。
私は全く手が回らず、全ての段取りをやってくれたスーパーレディの保護者の皆さん。
いつもそばにいてくれる親友。
みんなのおかげでできました。

すが先生の残してくれた言葉が全身全霊に染み渡ります。

「ありがとう ありがとう
 すべてが みんなの
 おかげさま」


皆様、本当にありがとうございました✖️永遠に。

田村千賀