4/3 (月) 「らんまん」

今日、NHKの朝ドラ「らんまん」がスタートしました。

「牧野さんを朝ドラに!」母校土佐女子の先輩松田雅子さんからこの話を聞いたのは、コロナが始まる前だったと記憶しています。

松田さんは、「何かを持ってる人」で、社会を動かす力があると日頃から尊敬する先輩です。作家であり、ライターであり、文旦の精(「文旦好きがこうじて」の作者で文旦むきむきでテレビにも取り上げられる有名人)であり、美術家であり、美術の先生でもあり、
とにかくすごい才能とお役目を持った方で、牧野さんと同じ佐川のご出身です。

「牧野さんをNHKの朝ドラに」
素敵なお話やけど、また大きな夢やなぁ、さすが先輩!と当時の私は、そう思った事を思い出します。
でも、松田先輩のことやから実現するかも…。と漠然と感じていました。

私も何かできることを!ということで、リトルのミュージカル「マキノ」を制作しました。
牧野さんを一番理解するには、そうミュージカルにすること。
子どもたちだけしかいない劇団ですから、どうやって牧野さんを描くのか、演出の濱田さんはきっと悩んだと思います。悩みを抱えた現代の高校生と牧野さんのとの出会い。もちろんファンタジーの世界でです。リトルっ子たちは、牧野さんの命名した植物になって歌い踊ります。

名も無い植物を見つけて名前をつけていった牧野博士。誰にも気づかれない存在に光を当てる。それは、まるで子どもを産んで名前をつける事と私の中で、重なり合っていきました。このマキノのミュージカルから名曲が生まれました。
「名前」
この1曲を歯全身に染み渡り、自然と涙がでます。
私たちは、生まれたら名前を頂き、「千賀」と何度もいろんな人に呼んでもらって成長してきました。なんという幸せな事でしょう。

この地球には、まだまだ誰にも知られないでそっとその命を生きている植物や生き物がある事でしょう。植物を愛し、発見し、名前をつけて世に出す。
それを一生やり抜いた牧野博士。朝ドラでどんなふうに描かれていくかが楽しみです。

私たちだけでなく、松田さんの呼びかけに賛同した方はたくさん。
「牧野さんを朝ドラにする会」も発足して、どんどん広がり、ついにドラマ化が決定。
そして、今日から放送開始です。

8時に流れたのは、高知の自然でした。陽光に照らされる緑。生命力あふれる緑、緑、緑。
これが高知や!と感動しました。私の一番好きなKOCHIGREENが全国に届きました。

松田先輩!すごいです。

牧野植物園で活躍する小松加枝さん、ご苦労様です、そしておめでとうございます。

びっくりするほど忙しい日々をお過ごしと思います。
ドラマが演劇が、エンターテイメントが、町を豊かにする。
すごいです。

やっばいです。今年は春からやばい!新しいものにいっぱい出会う予感で
私の心は「春らんまん」です。

牧野さんの朝ドラが誕生するまでの4年間のドキュメンタリーです。ぜひ見てください。
https://youtu.be/RMG9Fm2fB7I



ファイルイメージ

ミュージカルマキノ 「なまえ」



「感動」

丁度1年前の昨日、これまでのことを少しずつブログに書こう!と始めたものの、またしても続かない私。

11月に再開したものの3日坊主にもならず…。

またそうなるかもですが、ブログを再開したいと思います。
またまた(笑)できんことをするよ。と苦笑いしながら、お付き合い頂けたら幸いです。

今日のテーマは「感動」です。


皆さんは、これまでの人生でたくさんの「感動」を味わっていらっしゃると思います。
私も、数えられない程の感動の日々を過ごすしています。
それは、もちろんリトルや、よさこいのお陰です。

私が一番感動するのは、「成長」をみた時です。
大人でも子供でも。

特に仕事がら成長を見ることができるのでもう一年中、感動だらけです。

この感動のリトル生活も気づいたら30年を迎えました。

そして自分は今年11月に60歳になります。
前より集中力が弱くなった、跳べなくなった、なにもない所で転んでしまう、
鍵を探す回数が増えてた…。
自分の気持ちとは裏腹に「老化」を実感しています。

リトルによさこいに、大人のジャズダンスに、表現教育関係、
後先考えずに、広げてきた仕事を全てやっていくには、
厳しい自分の現実と直面!

これはいけない!できることとできないことを見極めて、
できないことは誰かに渡していかないと。いろんな人に迷惑かける。
また、後世が育っていかないと。育てる義務がある。
美味しいところばかりやっていてはいけない、次世代へ繋ごう。

そう決心して、リトルの代表を小西里佳へバトンタッチすることに決めました。

そして、この3月28、29日に第20回公演「Dreaming Musical]」を上演し、
30日には、打ち上げを兼ねた「感謝祭」を開くことを決めて、
怒涛の2月3月を過ごしました。

久しぶりに忙しかった。脳はなんかもフリーズを起こし、
心も平静をキープできない。
いろんな人に助けてもらっているのに、私の所で仕事がたまって迷惑をかける。
いい歳して不甲斐ない自分を持て余しながら、寝る間を削っても終わらない仕事。

まるで落ち葉が流れを堰き止めた川みたいになって、落ち葉の向こうは激流になっちゃうし、本当に皆さん、申し訳ございません。

そして、上がった幕。

それは筆舌に尽くし難い素晴らしい舞台でした。

舞台の隅々まで行き届いたエネルギーは、舞台全体から溢れ出し、劇場を大きく包み込んでいました。

天使のような子供たちの歌声は、大谷選手のストレートより私の心に飛び込んできて、
ひっとり涙が出て止まりません。
力強く生きる力を教えてくれるその声と存在は、わたしたち大人に確実に生きる力をくれます。
舞台を動かす構成の素晴らしさ、セリフに教えられ、感動し何度も頷きました。
振り付けの先生たちの溢れる才能と愛。
温もりのある舞台装置に子供たちもお客様も一気に夢の世界に飛び込んでる。
小さな声も、聞こえないセリフもきちんと届けてくれる音響。
演者の心の機微をしっかり映し出す照明。親御さんもみたことのない子どもたちの姿を遺憾無く照らし出してくれます。
その全体を、一手に運んでくれる扇の要の演出濱田さんと出口監督。

そして、そこに30周年で集ってくれた17名のOBOG。

平日開催にも関わらず、長期の休みをとって大集合。
ちづるが演出 振り付けを琴音 歌をサラと悠沙、そして踊るOG OB。
5年ぶりの舞台、どうしよ〜緊張する。と出番前に幸せそうなOBたち。
リトルの生活をコミカルな歌詞に仕上げ、構成したパワー溢れる作品。

この作品を見たのは公演2日前。それから火がついたのか、みんなイキイキとなにか表現しようという思いにスイッチが入った。
どうしたらいいのと迷ってた子たちに、「楽しむがよ」と背中を見せたOBOGのパワーはすごかった。

OB OGと現役が一歩もひかず、一つの舞台を作り上げた。
30年の集大成がそこにありました。

お客様の満足そうな笑顔を見送れたことが、さらに感動。
もう、全身熱くて倒れそうでした。

怒涛の公演の翌日は、感謝祭です。

こちらまったくなにもできない私に変わって、OBOG現役の保護者の皆さんと
OBのあきほ、ちづる、サラが全てやってくれました。

名簿の整理からご案内状の作成、返信の管理、会場との調整、プログラム構成、
動画作成と編集(大阪の大雅と佳奈美まで)。司会進行、会全体の進行。引き出物まで。
全て。

本当に支えられました。

みんなで作った感謝祭で、代表のバトンを渡すことができ、最後には
まさかのリトルっ子から赤いチャンチャンコを着せてもらい、
みんなに笑ってもらって幸せです。

こんな感動は、さすがに生まれて初めてです。

感動は感謝へとつながっていきます。

この感動と感謝を胸に、残りの人生を生きていけるなんて、
私は、すごい幸せものです。

幸せになるコツは、ミュージカルにありました。

30年前に、ミュージカル活動は、幸せのコツを掴むことができる。
ミュージカルを通して、子どもたちを幸せにしたいと思って始めたリトル。

間違ってなかった。ミュージカルは幸せへの切符です。

この切符をこれからも一人でも多くの人に手にしてもらえるように
これからも精進していきたいと思います。

「感動」体験は、人生の醍醐味と生きる源です。

この「ご縁」から始まる次の未来の感動を、またブログに書きますね。


〜ps〜
これが「縁起」なんだ。とわかりました。

✴️長文にお付き合いくださりありがとうございます。





ブログ 再開 11.20(月)よさこい8 ① はじまり

よさこい8がスタートしてのは、2020年の5月1日。
世の中はコロナウィルスに翻弄されて、約半年くらいだった。

いろんなものが、どんどん中止になっていく。
学校も一斉にお休み。なのに幼稚園保育園はやってる。

な〜ぜ〜
サッカー、バレーボール、コンサート、イベント…。
なんでもかんでも続々中止、
そして、春の甲子園も中止〜。

えらい人は言う「不要不急の外出は控えて!!」

不要不急って??  どの基準〜??

頭に浮かぶ???も、社会の波に押し流され、
とりあえず命を守ために、大多数の人に合わせてながれていく。

なのに、守りきれない命。

な〜ぜ〜???

反対意見はたたきのめされ、
な〜ぜ〜の言葉さえ、どっかに押し込まれた。

誰も、はっきりした事は、わからないまま確実に時間だけがいつもと同じペースで流れていった。

これは、よさこいもなくなるやもしれん。
そんな心配がちらほらしていた4月の中旬。

そんな時、電話がなった。
もしもしと取ると、某大学教授から。
ものすごく久しぶりの電話にびっくり。

「先生、こんにちは。ひゃー、懐かしい。
今日は、どうされましたか?」

「田村さん、急な電話でびっくりしたろう。
去年の4月30日から5月1日は、元号が平成から令和になったでしょう。
43051とかいて真ん中のOをとれば「よさこい」
平成令和とかいて、令に成るをとって残るのは、「平和」
こんな時期だから、4月30日か5月1日に世の中が、平和になるようなよさこいイベントをやったらどうでしょう。」

「先生、いいですね。やりましょう。」

私は、だいぶ興奮気味に電話を切った。

そう、今やらないかん。全てが中止になっていく中でも何かできることをしていきたい。

コロナさえも理由にしたくない。
コロナに負けたくない。
そんな気持ちが火山のように噴火してきて鼻息が荒くなった。

絶望感への挑戦だったのか。何かして不安を拭いたかったのか。
私の心の中にあるメサイアコンプレックスが疼いたか。

何かわからなかったけど、とにかくやらなきゃ!そんな気持ちに掻き立てられた。

その頃、たまたま、よさこい振り付け師たちにのぶ先生から集合がかかった。
こんな時にみんなを元気にしよう!
みんなで集って飲むのをYOUTUBE配信しようというもの。
少しでも元気だそう〜ってメッセージを送りたい、ノブ先生の純粋な心に、
時久紀恵先生、工藤理恵先生、樋口美加先生、小倉卓浩先生、國友裕一郎先生、私田村千賀が集まった。
この7名の振り付け師たちは、年齢も近い。それまではそれぞれの振り付けに没頭するばかりで、
さして深い交流もない関係。しかし、この7名で、よさこい祭り入賞チームのほぼ8割を占める。
世間の皆様は、それぞれ反目しあい、仲が悪いと噂されることもあった。

実際は、ただ交流する機会がなかっただけ。

そして、時を同じくして、国際絆チームの田中恵美子さんが精力的に活動していた。
恵美子さんは、日本人だが、カナダ在住。日本語の先生をしながら、世界の踊り子を集めてチームを組み高知に踊りにくるすごい行動力の持ち主である。

2020年も、と準備を進めてきたが、パンデミックの荒波をモロに受けていた。
しかし、もともと踊りの練習は、ズームを使ってオンラインでやっていたこともあって、世の中がズームって何?っていう時代に、サクサクとズームを使いこなし、100人で成長よさこいを踊る企画をしていた。

そこに、ゲストとして呼ばれた田村千賀は、世界のあちこちからパソコンの画面に集まった100名以上の人が、鳴子を一緒に鳴らして正調よさこいを踊る絵に、鳥肌がたった。

新しい時代がきた〜〜〜〜!

まるで明治維新のような感覚。(明治維新は知らないけど…苦笑)

衝撃的な体験をしたのが、3月。
のぶ先生がYOUTUBE飲み会を企画したのが3月末。

しかしコロナの感染拡大で、飲み会はキャンセルされ、ノブの企画は泡と消えてしまった。

そして、宙ぶらりんになったよさこい7に、時久先生が、RKCでよさこいテレビ体操をやろうと企画。
7人でそれぞれよさこいをもじった各意インストラクターの個性が爆発した体操が放送された。

いろんな活動は、今思えば全てよさこい8へと続いていったように思う。

まるで何かに導かれるように。

そして、振付師7名と恵美子さんに声をかけた。
恵美子さんなら、世界へこの活動をつなげてくれる。そう直感した。

4月の半ば、よさこい8はスタートした。

〜今日も読んでくださり、ありがとう。田村千賀〜



5月21日(土)須賀先生ならきっと言う「今こそ踊りなさい」

5月21日(土)

私がスガジャズダンススタジオに入社したのは、1990年ごろです。当時27歳。
インストラクタとしては、遅い入社です。

この先どうしようかという時、須賀先生が、「うちにこんかね」と声をかけてくれたのです。
「先生は、営業を担当してほしい」との事でしたので、インストは遅すぎるけど、営業なら
以前の職場でやっていたしと、思い切ってスガジャズダンススタジオに入社しました。

入ってみると、営業だけな訳がないですよね。あれよあれよといううちに、よさこいを踊り指導し、
エアロビクスやらジャズやら教えさせて頂くようになりました。
前のブログで書いたように、それから1年くらいたったとき、須賀先生が馬路村で神秘体験を
経験します。

1991 年 前夜祭がはじまる。長谷川岳氏がこの踊りを見て感動する。
     この年より、セントラルは前夜祭の1回目から5年連続1位となる。
     「須賀よさこい連」誕生
1992年 北海道よさこいソーランスタート
1995年 ホノルルフェスティバルに須賀よさこい蓮として参加

須賀先生は、神秘体験の後、ハワイマウイ島とのご縁ができました。
そして、マウイに住所をもち1995年ごろは、マウイと高知を行ったりきたりする生活を
送っていました。
須賀先生は、自分の使命を意識し、自分の魂を成長させるために、マウイは大いなる気づきを先生に
シャワーのように注いでいルようでした。

マウイには、チャネリングしてスガ先生にメッセージを下ろすチャネラーがいっぱいいました。
あまりの速さで進化する須賀先生を理解するのに必死で、とにかく私も先生と一緒にマウイに
飛んで、先生の考えを理解したいと必死でした。
そして、先生と一緒にヒーラーの先生のワークショップやリーディングを受けました。
そこで先生と一緒に聞いたメッセージは次の通りです。

もうすぐ息子さんがあなたの後を継ぐでしょう。
もうすぐ日本中に、よさこいを伝えるようになります。
日本の各地に、スガジャズダンススタジオができます。
よさこいを通して、精神性を高める活動をするでしょう。

このメッセージは全てその後その通りになっていきました。

思った通りに現実がなるとするなら、先生が強くそう思ったからそうなったのでしょうか。
しかし、それだけとも思えません。
須賀先生の神秘体験から、まるで水先案内のように、いろんな人が「こうなるよ」と
メッセージを下ろしてくれているように感じます。

須賀先生は、よさこいをただの祭りから、「いい世さ来い」と読んで精神性の柱を立てたと
思います。その形が今の「IZANAI」へと進化して行ったのだと感じています。
私が、スガジャズダンススタジオに在籍したのは、1996年の10月くらいまでだったと思いますので、
須賀先生のその後の急激な進化は、遠くから見ながらすごい!と感動していました。

須賀先生なら、きっと言うと思います。

「さあ、今こそ 踊るのよ 良い世さ こい!」
「みんなのおかげさま ありがとう〜〜〜」


今日も最後まで読んでくださりありがとうございます。

合掌✴️田村千賀



5月20日(金)よさこいを変えた須賀先生

5月20日(金)

須賀先生は、白い髭のおじいさんに会う以前も、よさこい祭りにカンフル剤を打つような
大きな役割を果たしていました。時代を作った立役者の一人です。

真っ黒の衣装で踊ったグローイングカンパニーは、ほとんどの衣装が半被の時代に、
全身真っ黒の衣装で、センセーションを巻き起こしたそうです。
踊り子は昭和の不良と呼ばれる若者たち。最初は、座り込んでタバコを蒸していた踊り子たちも、
最後にはイキイキと踊って最後には感動の涙を流したそうです。
須賀先生はその当時を振り返り「よさこいは人を変える力がある」と話していました。
この時の先生のお話がとても印象的で、今でもよく覚えています。

その後も、フラフの生地で作ったパンツが印象的な「いろはにほへと」
     先頭で羽をつけたレオタードで踊ったり(1985年)
     青紫のハッピにピンクのタイツ(1990年)の「オッペン化粧品」
     毎年15チーム以上の振り付けをしていました。

須賀先生の担当するチームはどのチームも話題性に富んでいます。

1985年のオッペン化粧品では、地方の運転席の屋根に立って、レオタード姿で踊っていました。
所々に鳴子をくわえた振り付けや、鳴子にスカーフをつけてヒラヒラ振って踊る。
1985年のいろはにほへとの先頭にはヌンチャクを持った男性の一団が。

法被の衣装がほとんどの中に、明かに異彩を放っていました。
奇想天外なアイデアに、人々はビックリ、ドキドキ、
よさこいのスタイルが大きく変化するきっかけを作ったんですね。

この続きは、21日のブログで。

最後まで読んでくださり、ありがとうございます。

合掌✴️田村千賀