4月6日(水)人生を変えた出会い〜須賀先生〜

4月6日(水) 今日は。須賀先生との出会いについて書きます。

人生を大きく変えた出会いの一つは、24歳の時に出会った須賀先生との出会いです。

きっと須賀先生に出会って人生が大きく変わった方は、ものすごくたくさんいると思いますが、
私もその一人です。

私が、24歳の時、高知市制100周年記念市民ミュージカルRYOMAでの事です。
私は団員、先生は振り付けの先生としての出会いです。

須賀先生は、私と10歳違いですので、当時34歳。場所は、城西中学校の体育館です。
ファ〜と広がるパーマのロングヘアに黒いレオタードから筋肉のラインが綺麗に見えて、
きゅっとしまった腰からスラッとのびた真っ直ぐな足。スタイルも抜群ですが、
放つ輝きというか存在のオーラがすごかった記憶があります。
須賀先生のとこだけ、ひだまりがあるみたいな感じ。

階段からこけた?のか理由ははっきり忘れましたが、手にギブスをつけ、三角巾で吊るしていました。
しかし、怪我は全く気にならず、あ、これかすり傷よねと言わんばかりの満面の笑み。
本当にパワフルな方だなあ。そこにいるみんなを虜にする魅力あふれる方でした。

いつ会ってもニコニコしてて、そばにいるだけで太陽にあたたっているような感じ、
しかし時折みせる激しさは情熱の現れ?とにかく熱い。
でもあの頃、須賀先生だけでなく、団員もスタッフも、あの時代はみんな熱いのが普通でした。
その中でも際立っていたわけだから、相当の存在感だったことは、須賀先生を知らない方も
少しは想像できるでしょうか。

ミュージカルのためと、スガにもレッスンい通うようになりました。
森本かおり先生、刈谷公治くん(リトルに出演してくれたり、いつもリトルを助けてくれます)
も市民ミュージカルで出会いました。

ミュージカルRYOMA終演後、「スガに来んかね」と誘われました。
芸事を仕事にすることは、田村家ではあり得ないことと教育されていましたが、
そのストッパーになっていた父も他界してしまい、自分の人生をどう生きるか
模索していた当時の私は、これは、タイミングだ、運命だ(運命は人が運んでくる私の命という言葉をちょうど見て)
人生は一度きりだから一度は自分の思い通りやってみよう、いかんかったらまた修正したらえい。
小さい頃からのこの気持ちを持ちながら他の人生を生きてもきっと後悔する。
いろんな理屈や、自分の都合のいい言葉が溢れてきました。

やめといた方がいいのじゃない?不安定な生活になる。
母だけが、そう心配しました。でも母は私を止められないとわかっていたので何も今言えなかった。
母は晩年30年間「なんちゃ〜わからんなった」と言い続けましたが、このあたりが母の「わからんなった」
の始まりだったような気がします。

そうです。母は、きっと自分の気持ちを抑えて、黙って許してくれました。

そして、エアロビクス、ジャズダンスのインストラクターをはじめ、安芸、吾川、佐川、などなど
市内より地域を担当し毎週、西へ東へと車を走らせていました。
そしてよさこいの振り付け、指導、須賀連を作り、よさこい派遣事業の窓口を担当し、日本中、
世界にまでよさこいを踊りに行きました。たくさんの出会いがありました。
よさこいを踊って世界を知る。こんなことができるとは、最初全く想像だにしなかった。
先生と一緒にマウイ島に心のワークショップに行ったことも今の私とってに大きな礎です。
たった5年間ぐらいしか在関していませんでしたが、
それこそ30年分、いやもっとたくさんの経験をさせていただきました。本当に濃密な5年です。

それらのことは、もうここに書ききれません。
また別の機会に少しずつ書きますね。

このようにきっと須賀先生に会っていなかったら、今の私はありません。
何より大きいのは、「人」としての出会いです。

須賀先生は、
「覚悟を決めなさい。大切なのは覚悟よ」
「覚悟すれば道は開ける」
「愛」を唱えました。
先生の唱える「愛」はどんどん進化し地球を包んでしまうほどの「愛」へと進化していきました。
それを伝え、現実に下ろす手段は「踊り」です。

須賀先生が40歳の頃、私は仕事で馬路村簗瀬にジャズダンスを教えにいきました、
そして、先生と泊まった「満木荘」先生の隣で眠りました。
朝起きたら、須賀先生が「夕べ白いひげのおじいさんが現れて、世の中の無気力、無感動、無責任を正せというて
消えた」と言いました。私は、また変なこと言いゆういくらいにか受け取ってなかったのですが、
この夜から、須賀先生の人生は、びっくりするような展開となっていくのです。
壮大な映画のような須賀先生の人生をみんなで、何かに残したいと今も思うばかりです。
このことも、なた別の機会に。

「世の中の無気力、無感動 無責任を正せ」よさこい祭の発展に尽力し、
きっと須賀先生がいなかったら、今のよさこいの姿はないと思います。
1代で、よさこい鳴子踊りに心の軸をしっかり立てた功績はすごいことだと思います。
(いつかまた書かせてください。本当に書くことがいっぱいだ。(笑)

そんな須賀先生が、リトルにも「愛」を注いでくれました。
私が32歳の秋、須賀先生から電話がかかってきました。
「千賀はもう価値観が変わったから、スガを出なさい。私はリトルを出るからリトルをやりなさい」
当時の私は、大好きな須賀先生が、社会からのバッシングももろともせず進んでいく狭間で、
自分を見失い始めていたので、先生の言うことも理解できましたが、
須賀先生のところを去りたくない気持ちもあり、素直には受け取れませんでした。

しかし、今は、このことが須賀先生の「愛」だと実感しています。
父、母、須賀先生、恩師から頂いた「愛」をリトルに来てくれたみなさんに一生懸命返していけたと思います。

「人生を大きく変える出会い」みなさんにもきっとあると思います。
人と出会うことは心の財産ですね。

今日も最後まで読んでくださり、ありがとうございました。

                                         合掌✴️千賀






4月5日(火)人は死んだらどこへいくの?

おはようございます。 今日はちょっと深い話題。
「人は死んだらどこへいくの?」

(苦手な方をする〜して下祭ね)

この問いは誰もが一生のうちに一度は、考えるのではないでしょうか。

時折、小さな子供にそう聞かれたら、皆さんはなんと答えるでしょう。
私は「お星様になって、空から私たちを見守ってくれてるよ」と答えています。

私が、一番この問いに答えを求めたのは、父との死別です。
前のブログにも書きましたが、24歳の時、父を見送りました。

心筋梗塞で、突然の他界。生前、「早く結婚しなさい。お前は早くしないと結婚しなくなるから」
と私を見抜いていた父は、お見合い用の履歴書と写真をいろんなところに配りまくっておりました。
父の死後、返却されたその量を見てかなり恥ずかしく、また父の愛と焦りと感じ、
父は死を予感していたのかなと思いました。

そのころの私は、好きな人がおりましたので、当然父と大げんかです。
「もう、ほっちょいて!!」この言葉が父との最後の会話でした。

なんということでしょう。1週間も口を聞いてなかった。
本当に後悔しました。皆さん、大切な人との喧嘩はどうか早めに仲直りしてくださいね。

そして、私は父に謝りたい一心で、死後の世界に関する本を、ひたすら読みあさりりました。
毎晩寝る前に、布団にはいって死後の世界の本を読む20代後半。客観的に絵だけ想像すると
かなりやばい…感じですね。(苦笑)

イギリスの幽霊研究の本、仏教の本、キリスト教の本、幽体離脱の本、精神世界や宗教、哲学などなど
いろんなジャンルを読んでみました。
そして、セミナー、リーディング、ワークショップなど手当たり次第受けてみました。

そして、浮かんできたのはどの本にも共通していたこと。

人の死は、肉体を失うだけて、心(魂)は死なないで生き続ける。
死ぬとガイド(道案内)してくれる光(先に死んだ先祖や導きの案内を仕事としている魂)が現れ、
必要な所に案内してくれる。
まずは、自分の生きた人生をふりかえるコーナー。
 そこで、自分の人生を生きてきた中で、誰かを喜ばせたり、傷つけたり、幸せにしたり、
 がっかりさせたりそんな心の歴史を振り返る。
そして、そこでこれから住むのにぴったりな行き先をが決まる。
(人には波動があり、その波動は魂(心)の波動。)
その住む世界は、波動が同じ人たちがいる村みたいなところ。
ほとんど価値観が一緒で喧嘩することがなく、とても素敵なパラダイスみたいなところだと。
そこでも魂(心)の成長のためにお勉強をする。そこには、指導霊として役割を持った高次元の魂(霊)がいて
ちゃんと導いてくれる。
大まかにまとめるとそんな感じです。

(くれぐれもと書いておきますが、全て本や、youtube、セミナーやワークショップなどからの情報を
 取りまとめたものです。本当にこればかりは本当だと証明できないし、信じられなくて全然OKです。
 ふ〜〜ん程度に、またフィクションとして読んで頂けたらと思います。
 そして皆様個々のお考えを尊重いたします)

話しを戻して、死後の世界を生きた後、また時期が来たら、新しい人生を生きるために生まれるのだそうです。

転生輪廻ですね。最近は、テレビドラマなどでも転生輪廻をテーマにしたものが出て来たりしているのを見ると、
だいぶ、転生輪廻は普通に信じられる方が増えてきたのかなぁと感じます。

この世を生きるのは、あの世と違って、いろんな波動の人(いろんな価値観の人)と一緒なので、ものすごく揉める。
まさに心の修行です。
そうストレスのほとんどは人間関係ですもんね。
だからこそ、生きている間の魂(心)の成長はとても早い。
あの世もこの世も、魂の成長を目的として存在しているのなら、この世で人間として生きることの方が、
あの世で同じ波動の人たちとの生活より、はるかに成長が早いそうです。
うまくいかない人間関係にこそ魂を成長させる学びがある。
なのでみんなこの世に生まれたい。

(生まれる前の記憶をもっている人も多くいるとの研究もありますが、これについてはまた別ブログで)

今の人生の目標が魂(心)の成長で、その進化によって、あの世の住む村が決まり、そしてまた生まれる。
それを繰り返すのなら、今をちゃんと生きないとなぁ〜〜。
と思うようになりました。

ちゃんと生きられてるかは、全くわかりません(笑)
とにかく誰かを笑顔にしたり、喜んでもらえることに集中するのが良いのかなあと考えています。

そして、死後の父に、会えたかというと、はい、会えません。
この世的には会えませんが、目を閉じて父をイメージすると会えます。
会話は、心の中で聞くと。フワッと心にあふれてきて、それを自分でしゃべって会話します。
迷った時、困った時、嬉しい時、やっぱり心で父や母と会話します。

死ぬと体を失くすので「思い」だけになるからイメージすればそこにいるそうです。(これはセミナーからの情報)
時には、本当の声が聞きたくはなるのですが、それなないものねだりですね。
しょうがない、受け止めて初めて見える世界だから、「受けとめる」を学ぶしかないと思っています。

よく「お天道様は見てるよ」とおばあちゃんに言われました。
小さい私「お天道様って?太陽??」
おばあちゃん「そうそう、太陽さんはいつも空からあんたをみゆうぞね」
小さい私「じゃあ、夜やったら、大丈夫や」
おばあちゃん「夜は太陽の代わりにお月様が見てくれゆうわね。太陽さんもおやすみせないかんろう。」
小さい私「そうか、わかりました。」(ぐ〜〜の音も出ません。笑)

おばあちゃんは、幼い私にとって一番苦手で怖い存在でしたが一番お年玉をいっぱいくれたし、
お正月はおばあちゃんのお寿司で迎えていました。

死んだらどこへいくの?
おばあちゃん、おじいちゃん、父、母、パートナー、須賀先生、立脇先生、岡林さん、…。
旅立たれたたくさんの方々、これからも心が道を外さぬようお見守りください。

今日も最後まで読んでくださりありがとうございました。

合掌✴️千賀




三日坊主

4月4日(月)

おはようございます。今日は三日坊主について書きます。

私は、本当に三日坊主です。始めるのは得意ですが、継続してコツコツやるのが苦手です。
ですから、リトルを30年続けてこれたのは、本当に周りのおかげです。
三日坊主の私が、ここまで続けてこれたのは、
リトルっ子の存在。みんな楽しそうにしてるから頑張ろう。
リトルっ子の保護者の皆さん、いろんな考えがあるけど、とりあえず通わせてくれている。
家族の皆さんのたくさんの思いが、時には崩れる私を叱咤激励してくれました。
いろんなことがあってもリトルのステージをやり終えた時の達成感。
年に一度は、旗揚げ公演の直感を思い出させてくれてる感動ステージ。

 もちろんきついこともたくさんありましたが、それを忘れさせてくれる素晴らしいことがあったからです。
だから、リトルは三日坊主を切り抜けられたと思います。

でもそのほかは?毎朝、これしよう。たとえば花に水。必ずyoutube動画とか、朝起きたらストレッチ、
毎晩筋トレ、毎朝6時に起きる。などなど。
些細なことほど習慣化するのは本当に難しいです。

ここで少し、「脳」のお話。
脳には神経細胞があって、神経細胞の先っちょには「ニューロン」というのが伸びていて、
このニューロンとニューロンが手を結んだら、覚える。しかし、人間には、このニューロンが
手と手を結ぼうとするのを断ち切ろうとするホルモンが3日に1回出るんだそうです。
なんと、神様はうまいこと人間を作られたのか…。
このホルモン=ヤツに負けないように強く思ったり、意識してないと身につかないということです。
そして、このヤツは、3ヶ月くらい出てきますが、3ケ月くらいしたら、
もうこの人には通じんわ。と出てこなくなるそうです。
御百度参りとか、石の上にも3年とかいうう時の「3」はそれでかなぁと
これは私の根拠のない勝手な想像です。

ヤツに負けたのことは数知れず…。はい私は豆腐のような根性です。(苦笑)

そんな私ですが、今日はブログを書き始めて4日目ですから、
1回目のヤツに打ち勝ったということです。
あ〜〜〜、よかった。小さな自己肯定感に癒されています。
小さな肯定感は、続けることができれば大きな達成感にきっと変わりますね。
そう、うまくいくのか…。(笑)

さあ、皆さん、このブログはいつまで続くと思いますか?
クイズダービーみたいに、面白がっていただけたら幸いです。

今日はここまで。
最後まで読んで頂いてありがとうございます。

                                          合掌✴️千賀







4月3日 人生を決めたひらめき

今日は、今の人生を大きく決めた「ひらめき」についてかきます。

「ひらめきや直感に正直に生きるといい」そんな言葉を耳にしますが、
「直感」って?????なんだ?

例えば、今日のお昼は、ラーメンにしよう。今晩のご飯は、カレー作ろう。
そんな風に、いろんな思いが浮かんでは消え、浮かんでは消えしています。
それらも「直感」と捉えると、日々途方もない数のひらめきがありますよね。
でもそれらは、直感なのか、欲望なのか?それがいいのか?悪いのか?
全くわからず、色々考えているうちに、めんどくさくなって考えるのをやめる。
そんなことはしょっちゅうだし、それらをいちいち直感だ〜とはとらえないで、生活していきますね。

でもこれまでの人生を振り返った時、これは自分にとって大きな直感だったと感じることがあります。
今日はその大きな直感について書きます。

その直感は、2日のブログにも書きましたが、寺沢くんが「子供ミュージカル劇団をやりたいと思うのですが」
と現れた時でした。そして、
その次の大きな直感は、「リトルは私のライフワークだ」と直感したことです。
それはリトルの旗揚げ公演のラストフィナーレです。

=====ここでちょっとリトルの1年目について=(飛ばし読みしたい方は⭐️印へ)======
リトルはオーディションを経て、1991年12月に「高知リトルプレイヤーズシアター」として発足しました。
そして始まった劇団活動。水曜日と土曜日の6時〜8時、に開催。
場所は、いろんな公民館や体育館をお借りしていました。

当時の事務局は、KUTVのアナウンサーを退職されたばかりの横山和正さんの「横山和正事務所」さんが担当し、
演出は寺沢さん、ダンスの売りつけを立脇先生とスガ先生、歌を岡本幸正さんが講師として担当してくださいました。

順調に滑り出したかに見えた劇団活動でしたが、始まって間も無く横山事務所さんが事務局から離れる事になり、
スガで事務局を担当することになり=田村千賀が事務局担当となりました。
手探りで運営を担当しましたが、もともと大好きなので楽しくやりました。

また、しばらくして主役の子が両親の転勤で劇団を辞めて、急遽里佳先生が主役になり、
また、大人の魔女役がいないということで、私も魔女の一人として出演することになりました。
事務局、出演、スガ先生のアシストでダンス指導…。
あれれ?なんか想定外に忙しくなっていく‥‥‥。

無我夢中の日々です。熱が入りすぎて練習時間はいつも予定時間をこし、お迎えの保護者さんから叱られる。
岡林さんにしょっちゅう怒鳴られました。
一ヶ月前になってもパンフレットは、何も進んでいない。
初めての大きな公演です。何がどうしたのか物凄い予算に膨れ上がり、
制作を担当していくれた依光香代先生、寺沢さん、みんなで必死で協賛広告を集めて、
今ではかんげられませんが、150件近くの方にご協力をいただきました。

舞台監督デビューとなった出口さんは、大変。照明の明神さんや装置の小松さんに囲まれ、毎日夜遅くまで
ココスミーティングを繰り返し、本当に明日幕が開くのか?
とドキドキもしました。

⭐️⭐️⭐️⭐️⭐️
星いろんなことがありましたが、リトルの初舞台は、不思議と大丈夫といく確信がありました。
なぜなら、そこには子供たちの笑顔とイキイキした時間と何かが生まれるワクワクががあったからです。

なんとか迎えた本番。練習を遥かにこえた子供たちのステージに、会場もスタッフもみんなが大感動でした。

紙吹雪の舞う中、泣きじゃくりながら踊り、感動をこらだ全身で感じて涙いっぱいの子供たち。
そして子供たちを包み込むように緞帳が降りていく様子を見たときに、
「あ〜〜、出会ってしまった。これやなあ〜〜私のライフワークはこれだ」

上手の花道のところから舞台の様子を見ながら、そう静かに感じていました。
この時の感覚は、今もはっきりと私の細胞の中に息づいています。

29歳にして初めて自分の人生の道が見えた瞬間です。

よく子供たちは、夢がない、将来どうしたらいいかわからないと言いますが、
それでいいと思います。
一つ言えることは、「好きなこと」を諦めないでやり続ける。
それだけでいいと思います。
それが仕事になるかどうかではなく、心に正直に生きるということがまず大切だと思います。
夢の形は年齢と共に、変わっていきますが、その人にとってちょうどいい形になっていくのだと思います。

思うことは、叶います。
夢は叶います。


子供、ミュージカル。私の見た夢は自然な形で、私の前に現れ実現したのです。
最近ひょっとしたら、生まれる前から決まったシナリオだったのかも。
と思うほど、思いの道がつながっています。

きっと人生は、こんなふうに直感に満ち満ち、楽しいものなんだなあと思います。
直感から遠ざかるのは、迷う心や、自分の心に嘘をついたりする時なのかなと思います。
迷ったり、自分を欺いたりするのも、心の進化にとっても必要な事ですから、
大切にしないといけないとも思います。

そう、何がどうなっても、私たち人は、幸せになるように作られていると感じています。
(これを知ったのは、ヨガ哲学からです)

人生って素晴らしい。

今日も最後まで読んでくれてありがとうございました。

                                       合掌✴️千賀



4月2日 リトルの始まり。

4月2日(土) 今日はリトルの始まりについて書きます。

*結構いろんなところで話したり、書いたりしているので、すでに知っている方は、スルーっとしてくださいね。

リトルの始まりは、私が28才スガジャズダンススタジオに勤務していた時の事。
スガジャズの階段を一人の青年、寺沢さんがコツコツと靴音を響かせて上がってきました。
私「いらっしゃいませ」
寺沢さん「スガ先生はおいでますか?子供のミュージカル劇団を作りたいと思いまして、スガ先生にご協力頂きたいと思いまして」

ビビ〜ん。ミュージカル?子供? …。

きた〜〜〜〜〜!

私の直感が、すごい勢いで反応したのを今でも覚えています。
今までの人生の点と点が一気に一本の線になった感覚でした。
今から思い返しても、私の人生の中の一つの分岐点だと思います。

直感は常に私たちの中に存在していますが、それをはっきり意識した最初の出来ごとでした。


ここで少しだけ28才までの私について書かせてください。
(この下もよく喋るお話ですので、聞いたことのある方は、スルーでお願いします)

小6  宝塚のベルサイユのばらが空前の大ヒット
    塾の机の下で宝塚のプロマイドを眺めて先生に叱られ、全く受験に身が入らない。

中学生 なんとか土佐女子に入学し、中1は合唱部、中2から舞踊部(今のダンス部)で部活に専念。
    とにかくダンスが大好き。朝練→授業→部活 の毎日。

高1  劇団四季「コーラスライン」高知公演を見て、ミュージカル女優を目指す

高3  大学進学はやめて劇団を受けると言うと、父親に大反対され、家出。
    いの駅のベンチで母に「東京の大学に入って、本当に自分がその世界でできるか
    自分の目で確かめておいで」と説得される。
    とにかく東京へ行けばなんとかなると思う17才の千賀。(お花畑の世間知らずです)
    10月に受験を決めて、大学を探す。たまたま蛍雪時代?に特集されていた
    「玉川大学文学部芸術学科児童専修」を見つけて、学内の指定校推薦にも合格し、12月5日の推薦入試
    を受験。結局、大学受験の勉強は、1ヶ月半しかしていない。
    (本当に頑張ってる友達には、かなり白い目で見られ、ごめんねと心で手を合わせる)

大学  子供のための音楽、舞踊、演劇、美術、全てを網羅した内容のコース。
    とにかく楽しかった。好きなことをして毎日過ごす夢の時間の始まり。
    授業の児童劇を、都内の幼稚園や学校、青山の子供の城(今はもうなくなりましたが、都内の大きな児童館)
    で上演。子供たちがどんどん成長するのを目の当たりにし、演劇の力を実感する。
    しかし、私にはミュージカルスターという夢がある。
    とにかく、単身一人で上京したのだから、縁をつくならいとどこに何をすればいいかもさっぱりわからない。
    まずは、サークルか。と英語でというのは引っかかったが、ブロードウェイミュージカルを上演する
    English Theatorical Campany(TEC)へ入る。

    昼間は児童劇、夜はブロードウェイミュージカル、台本2冊を抱える大学生活を4年間走り続ける傍ら、
    先輩の鞄持ちをさせていただき、アングラ劇団、バレエスタジオ、俳優、プロデューサー、
    ダンスコンサートなどなど、いろんなシーンを見させていただく。

    いや〜〜〜〜〜面白かった。

大学卒業後 劇団四季のミュージカルより、演劇で子供の成長を育む演劇教育に魅力を感じるようになっていたので、
    劇団のオーデションは受けず、一度お金を貯めるために高知に帰ると決める。
    東京の満員電車に衝撃を受けたのと、とにかくここからは親のお金ではないことでやっていきたい
    という思いが強かったから。
    とにかくお金を稼げる仕事をということで山一證券高知支店に入社。証券レディとして、ガンガン働く。

就職  山一證券時代は、とても勉強になった。世の中は、バブル真只中。ワンレンボディコンでディスコで
    扇子ヒラヒラの時代。お札もヒラヒラ宙を舞う。今から考えると夢のような時代だった。
    初年度の冬のボーナスはなんと80万。よっぽどお金が余ってしょうがない時代だった。
    あとにも先にも、この頃が一番収入がありました。(苦笑い)
    毎月1億のノルマも意外となんとかなり、お金がどうやって世の中を回っているのか、
    お金が儲かる人と儲からない人、世の中にはお金以上に価値のあるものがたくさんあること、
    そんなことをお客様や上司から学んだ。本当にいい方に恵まれました。ありがたいです。
父との死別
    24才の夏の終わり。その日元気に出社した父は、社長室で心筋梗塞になり、あっという間に天国へ。
    結婚問題で喧嘩したのに、そのまま仲直りもしないままの別れ。後悔の嵐。
    若い私も母も、イカリが外れた船のように、あてもなくフラフラと風に吹かれるままに海原を漂うような
    日々に突入。
    そんな秋、高知市制100周年記念ミュージカルRYOMAが企画される。これを最後に結婚しようかと
    この企画に応募。進行役の乙女役をやらせていただく。
    そこで運営の出会い。「須賀先生」
    この方に出会わなかったら、今の私はありません。
スガ入社 
    母は父を失って心身を崩し、入退院の繰り返しの日々に。そんな中、スガ先生に声をかけていただき、
    かなり迷いましたが、一度しかない人生だからとスガジャズダンススタジオに入社、
    なんと27才の時。遅いスタートでした。
    (スガ先生は、最初営業で入ってとの事でしたので、それならできるかな、と入社を決めましたが、
     もちろん営業だけなわけがなく、いつの間にか、エアロビクスを教え、ジャズを教え、よさこいに
    携わるようになり、今に至るというわけです(苦笑い)

    回顧録が、長かったですね。ここまで読んでくださりありがとうございます。

そして、28才の秋、寺沢さんの一言で、立脇先生(バレエ)、スガ先生(ジャズ)、岡本光生先生(歌)と寺沢さん(演劇)の4名で「高知リトルプレイヤーズシアター」がスタートしました。
私は、スガ先生のアシスタントとして参加しました。もちろんスガ先生に、リトルに参加したいと
熱烈立候補致しました。
正直その時から、これは私のためにこの世に誕生するのだぁ〜と勝手に思っていたからです。
(本当におめでたい奴です。私)

オーディションには、小学1年生〜中学3年生まで50名を超える応募がありました。
みんな緊張の中でも、とても熱心にオーディションに向かって、一生懸命でした。
今だから白状しますが、全員合格で、スタート致しました。

のちに代表を務めてくれる岡林さんは、息子晃史くんの保護者として参加。
とにかく一番クレームの多い保護者さんでした。(^^)/
リトルで活躍中の里佳先生も1期生の一人です。
他にも、1期生は今だに「南国スーパー」のCMに出て、「新鮮、新鮮、美味しいおいし〜い」と歌っています。

それから第1回旗揚げ公演を目指して活動スタートです。その頃から勤労者交流館の体育館を使っていました。
当時はサンサイフ高知という名前。まさにあそこが、リトルのホームグランドです。

今年、劇団員のキッズさんが「千賀先生、リトルを作ってくれてありがとう」って言ってくれたけど、
その時、「こちらこそありがとう」と返事してしまいました。ごめんなさい。
気がとがめるので、今日はリトルの始まりについて書かせていただきました。

今日はここまでです。

長い文章を読んでくださりありがとうございます。

                                               合掌✴️千賀