4月21日(木)「テレビ」

4月21日(木)

おはようございます。今日は「テレビ」について書きます。

私が初めて見たテレビは、四角い長方形型の箱型で、足がついてて、箱の上にはアンテナがありました。
チャンネルは、丸型で、右へ左へとガチャガチャ回して番組を見ていました。
確か、カラーだったように思います。

そして、テレビはものすごく進化しました。
チャンネルが消えてリモコンになりました。
わざわざ、テレビまで行かなくても、座ったたままチャンネルを変えられる。
動き自体は少しのことですが、ものすごく便利で、なんかいい気持ちでした。

フォルムもどんどん薄くなっていきましたね。壁にもかけられるし、大型化も進み、
見ている人の顔より画面の中の顔の方が大きくて、もう「映画」状態ですよね。
画面もとても綺麗になって、自分の目で見るより綺麗に見えます。

2020年の秋、突然我が家のテレビが壊れました。
電源を入れても全くつきません。
直そうかとも思いましたが、この際、テレビのない生活ってどんなもの?と
思った私は、テレビに布を被せて、テレビをつけない生活に入りました。

そうなると情報源は、スマホ。ネットニュースにYOUTUBE。
初めて開けたYOUTUBEにはびっくりでした。
いろんな人がいろんなことを言ってます。
際限なく広がる情報の海に、押し流されるような気分になりました。

もっとびっくりなのは、新聞や、テレビで話される内容とYOUTUBEの内容は随分違います。
(特に、その頃はアメリカ大統領の選挙の報道が盛んに流されていました)
これは、どう受け止めれば良いのか、何が真実で、何が嘘か、全くわからないなと。

テレビや新聞は、報道する内容の裏付けをとった上で流しているのだから、信憑性があるのか。
しかし、プロパガンダとかも流されるわけだから、もう、全くどれを信じていいかわからない。

そう考えると、結局は自分の五感をフルに使って感じたことが、真実ということになるのでしょうか???

情報化社会の発達のおかげで、今や嘘がつけない世の中になってきましたね。
「嘘も方便」とか「いるす」とか、もうバレバレですよね。
プロパガンダでさえ、いろんな技術で宇宙から丸見えの世の中です。

テレビが情報源だった時代から、テレビも情報源の一つとなってきた今
またテレビの役割も少しずつ変わっていくのでしょうか。

去年母が他界し、母の使っていたテレビが我が家にきました。
母を思いながら、またテレビをつけてみました。
今はテレビと、新聞とSNS,、いろんな情報源を楽しんでいます。

それぞれの役割があってそれぞれのよきところを選んで使っています。
どれが真実かはやっぱりわかりませんが、
社会はこう考えているんだと理解するようになりました。

ふ〜〜、時代についていくのに必死です(苦笑)

今日も最後まで読んでくださりありがとうございました。

合掌✴️千賀








4月20日(水)「回り道」

4月20日(水)
おはようございます。今日も読んでくださり、ありがとうございます。
今日は「回り道」について書きます。

私の大好きな言葉に「回り道 振り返れば一本道」という言葉があります。
私が回り道をしたのは、大学を卒業した22歳からの2年半くらいです。

===(ここからは以前のブログで触れた内容です、読んだ方は下へワープしてくださいね)===
小6の時宝塚のベルサイユのばらを見てからミュージカルが大好きになり、
それ以来ずっとミュージカル女優になることを夢見ていました。
大学進学を控えた高3の時、「私は大学には行かない。東京へ行って劇団に入る」と両親に言いました。
すると父は「海のものとも 山のものともわからんお前が行っても、通用する世界じゃない。
何を夢みたいなことをいいよら。現実をみなさい」と大反対。

私は「なんで私の夢を邪魔するが。もうえい、私は一人で行く」とプチ家出。
そのまま真っ直ぐいの駅へ行って、切符を買おうとしたら財布がない(汗)
あんまり頭にきて家を飛び出したので、何も持ってない。
しかし、このまま家に帰るのも罰が悪い。
どうしたものかと駅のベンチに座り、小鼻からふんふんと怒りの煙を吐き出しながら、
父親に理解されない悔しさを噛み締めてどうするか作戦を練っていました。

するとそこへ母がやってきて(私の行動はお見通しです)
「そんなに行きたいなら、まずは東京へ行きなさい。その代わり大学に入るのが条件ぞね。
大学におるうちに、その世界が自分が通用するかどうかじっくり見てきなさい。
卒業しても気持ちが変わらんやったら私がお父さんを説得するから」と言いました。

親不孝者のお転婆娘は、「やった〜。お金出してくれるがや。よかった。大学はすぐやめて劇団受けたらえいわ。
とにかく。東京へ行ったらなんとかなる」と心で思い、「わかった」と母に即返事。

父への怒りの汽笛を鳴らすはずの鼻息もどっかへ消えて、さっさと家に帰り、受ける大学探しを始めたのです。
(切り返しは本当に早い。(苦笑)

そして入学したのが、玉川大学文学部芸術学科児童専修課程(この学科今はもうありません)
ここがものすごく面白かったのです。頭に「子どもための」という冠は付きますが、
身体表現、歌唱表現、音楽表現、絵画表現、児童劇演習、舞踊、声楽、ピアノ、作曲、などなど
大好きなことばかり。おまけにミュージカル女優がダメなら幼稚園の先生になりたいと思っていたのですから
この大学は、私にとってドンピシャパラダイスだったのです。

大学3年生の時、参加劇(見ている子どもたちが一緒にお芝居に参加して演劇を楽しむというスタイル)
をある所に上演に行きました。その時、私にとって衝撃的なことが起こったのです。

お母さんの後ろに隠れて恐々と入ってきた男の子が、私たちの参加劇が終わったら
「ママ、僕、泥棒やっつけたよ。強いよ」と言いながら
意気揚々と肩で風を切って帰って行ったのです。

「へ〜、演劇には子どもを成長させる力があるんや」それまで、大劇場でたくさんのお客様に感動を与えるという
観念しかなかった私は、目からウロコでした。
それから、ミュージカル女優より、演劇教育に興味が沸いたのです。

=====(ここへワープ)======

大学を卒業した私は、卒業後は自分のお金で生きるという気持ちが強かったので、
お金を貯めて、もう一度東京に行こう。まずは高知に戻って働こうと帰高を決めました。
そして、就職したのは、「山一證券高知支店」です。

ミュージカルの夢を追っていた私にとっては、人生初めての「回り道」というわけです。
山一證券時代も、かなり楽しかった。
予定通り、お金も貯まるし、貯まったお金を株でふやして、目標額は意外とすぐに達成できました。
そして、その資金で35歳の時、リトルスタジオを作ることになるのです。
スタジオを作ったときが、「回り道 振り向けば一本道」になった瞬間でした

山一時代はたくさんの事を学びました。
お金が世の中をどうまわっているのか。
誰が得して誰が損しているのか、
お金が儲かる人、儲からない人、
資本主義経済の可能性と危うさ、
社会と人とお金の不思議なバランス
そして、やっぱり「人」が大切であること。
あるお客さまの言葉です。
「田村さん、人がお金を作って、人がお金を動かしゆうでしょ。
 人を大切にせんで、どうする?全ては「人」ぞね」
この言葉は今も、私の大切な言葉の一つです。

この「回り道」のおかげで、今があります。
24の時は「回り道」と思った。
29の時リトルに出会って点と点が線になり、
35の時スタジオ作ったら線と線が面になった。
そのスタジオでたくさんの人と出会い生きていくうち、
面が重なり、立体となり、60手前の私は、3次元宇宙を生きています。

「回り道」も悪くない。いえ悪くないどころかとても大切。
あの回り道のおかげで、どれだけ自分が何をやりたいのかわかった。
自分は何を大切に生きたいのかを理解した。
人生の一番の軸がわかったと思います。

「回り道」も必然。
人生に無駄はひとつもないんですね。

「回り道 ふりむけば 一本道」
今日はちょっと回り道して仕事に行こうかな。

今日も最後まで読んでくださりありがとうございました。

合掌✴️田村千賀











4月19日(火)「間」について

4月19日(火)
おはようございます。今日も、いい日をお迎えのことと思います。

今日は「間」(ま)について書きます。
よかったら読んでください。

私は、振り付けの時に「間」を大切にしています。
「間」は呼吸感でしょうか。
動きから作られる「間合い」があります。踊っている人も見ている人も、その「間合い」に乗っかたり、外されたりしているうちに、踊りにハマったり、その踊りから目が離せなくなるからです。

「間合い」を作って遊ぶと、面白いものが生まれてきます。
もちろん振り付けは、まず音があるので、振り付ける前には、音の「間」を読みます。
音の間には、作曲者の心の動きや、メッセージを感じることができ、「ほ〜、そうきたか」
「ふむふむ、なるほど」とか、心は楽しく動きます。
その作曲者と自分との間合い、自分の中での間合い、自分と踊り手との間合い、自分と見る人との間合い
いろんな相手との間合いが幾重にも重なり、混ざり合い、振り付けが仕上がっていきます。

振り付けだけでなく「間合い」はコミュニケーションで欠かせないことですね。
生まれたばかりの赤ちゃんとも全く意識してないけど、この「間合い」でお話ししていますよね。
「いないいない、ば〜〜〜〜〜」動きや言葉には、ちゃんと「間合い」があります。
「ぱっぱ」とか「ぶ〜〜ん」とかオノマトペを使えば、面白い「間」を表現できるし、
その「間」を、いろいろ展開させて遊ぶのはとても面白いですね。

人は、生まれた時から自然と「間合い」の中で生きているのだと思います。
「間(ま)」「あいだ」。この「あいだ」…。
人と人の「あいだ」。物と物との「あいだ」
隣と隣の「あいだ」子供と大人の「あいだ」…。あげればキリがありません。

あらら…!!「あいだ」はとても大切ですね。ちょうどの「あいだ」があれば心地よくて、
この「あいだ」がうまくないときは不快感ですね。

なんだかこう考えてくると「あいだ」って深い。
「あいだ」がよくないとぶつかったり、せったり、届かなかったり、遠かったり、近すぎて見えなかったり、
人間関係も「あいだ」がとても大切ですね。

こうして「あいだ」「あいだ」と書いていると?!

「あいだ」→「愛だ」

あれれ?日本語って、ときどき大切なメッセージを隠しているのではないかと思うことがありますが、
これもその一つ???でしょうか????

「間」に「愛だ〜〜」があれば、いろんな「あいだ」は、絶妙に素晴らしい「間」になるんじゃないかな。

書きながら今そうひらめきました。

みなさん、どう思いますか?

「間合い」=「間」に「愛」を入れた人間関係を作れたら、素敵ですね。

「間(ま)」は、リズムでもあります。この「間」を織り込んでいるダンス。
ダンスを踊れば、言葉を超えたコミュニケーションができる。
ダンスの「間」にはいろんなものが詰まっています。
この間を繊細に感じ、表現できるようになると素晴らしいダンサーです。
心と心が共鳴する快感。だから「踊り」っていいんですね。

こう捉えると「歌」も「踊り」もそして文化なんでもこの「間」が存在するものを幼少期から経験することは
すごい財産になりますね。

「間」(ま、あいだ、…)あなどれません。

今日も最後まで読んでくださり、ありがとうございました。

合掌✴️千賀







4月18日(月)隣のおじちゃん

4月18日(月)

おはようございます。今日は「隣のおじちゃん」について書きます。
(少し長いので、お時間あるときに読んでください)

私は、隣のおじちゃんに育ててもらいました。
私は、幼少期を「いの」で暮らしました。
いの町の実家の隣には、おじちゃんとおばちゃんと娘さんが住んでいました。
おじちゃん達は、私をとても可愛がってくれました。
小さい時、隣のお家に上がり込んで、いろんなものを頂いた記憶があります。
ジュースにアイスクリーム、いちご、お芋などなど。

自分の家と違うことも興味深々でした。
まな板を天日干ししているのが不思議で、
「どうしてこんなところにまな板おいちゅうが?」と聞くと
「お日様が、悪い菌をやっつけてくれるがよ」と。
お日様はピカピカ光るだけでなく、そんなこともできるのか!と小さい私はびっくり。
小さな私は、めちゃくちゃ隣が大好きでした。

隣のおじちゃんは、とても褒め上手でした。

おじちゃんは、いつも家の周りを掃除して、草をひいていました。
私はおじちゃんに、「おはよう」と声をかけました。
するとおじちゃんは「おはよう、今日も元気やねえ。ちかちゃんのおはようを聞いたらおじちゃんは元気になるぞね」
と言ってくれました。
それを聞いた私は、とても良い気持ちになって、おじちゃんに会うたびに
「おじちゃん、おはよう」と元気に声をかけました。
そのたびにおじちゃんは嬉しそうな顔をして「おはよう」と返してくれました。

ある時、母が「まあ、いつもすいません、お陰でこの辺が綺麗になります。」と
「おはようございます。」の後にオプショントークをつけたのです。
するとおじちゃんは、「いやいや、わしは草をひいたらすっきりするきねえ〜。よろこんでもらえてよかったわ」
と普段より嬉しそうでした。

「なるほど、おはようの他になんかつけたらおじちゃん喜ぶがや」と小さい私。
その次から、おじちゃんに「おんちゃん、綺麗になりゆうね」と言葉を足しました(なんと上目線…(笑汗)
するとおじちゃんは「ありがとう。そう言うてもろうたら嬉しいね」と返してくれました。
小さい私は、ちょっとお姉さんになった気分です。
そしてある日、おじちゃんは母に「ちかちゃんは、本当に挨拶がようできるね〜。いっつも感心する。
草引きしよってもちゃんと『綺麗になりゆうねえ、ありがとう』というてくれるがは、ちかさんだけぞね」と。
私の心はロケットに乗って空へ飛んでいくほど、嬉しかった。意気揚々でした。

本当は、もっとおじちゃんに気に入ってもらって美味しいものいっぱい欲しかっただけやったのに、
なんか褒められたことで、私はなんとも言えない良い気持ちを味わったのです。
これが「自己肯定感」っていうんでしょうか。

それからさらに気を良くした小さい私は、おはようの後につけるオプションを工夫し始めました。
「おじちゃん、おはよう。今日は天気がいいね」
「おじちゃん、おはよう。今日もきれいになりゆうね。」
(これはおじちゃんが喜んでくれる鉄板言葉なので何日間かおきに必ず言いました)
「おじちゃん、今日は暑いき、無理せられんで」
「おじちゃん、明日は、雨やと、テレビがいいよった」
などなど、

当時4歳です。かなりのオマセさんです。(笑)
このオプションご挨拶は、実は全てお守りのおばちゃんの真似っこです。
(私は、お守りのおばちゃんに預けられていました。
とても優しい方で、いろんな気遣いの言葉を毎日聞いていましたので、
いろいろなオプションネタはいっぱいありました。)

意気揚々と私は、おじちゃんにオプション挨拶バズーカをガンガンに浴びせました。
おじちゃんはちょと辟易したかもしれませんが、優しい方ですから、
そのたびにちゃんと答えてくれて、私はおじちゃんのことがますます大好きになりました。

最初は、美味しいものを頂きたい気持ちでしたが、いつの間にかおじちゃんに褒められたい気持ちになり、
おじちゃんの嬉しそうな笑顔を見たい気持ちへと、挨拶する気持ちも変わっていったのです。

4歳の頃の私は相当お転婆でしたから、隣のおうちの塀によじ登って、塀づたいに隣のお家に行きました。
玄関からは入っていきません。塀を登って降りるのが日課でした。(かなりのワリコトシでした(苦笑)

ある日、おじちゃんちの塀に登る時、足場にしていたブロックを壊してしまいました。
どうしよう!大好きなおじちゃんに、怒られる。そう思った私は、怖くなって黙って家に帰りました。

当然そのままで終わらない。どうしようと自責の念で困りはてて、たまらなくなった私は、
母に「おじちゃんちのブロック壊した」と白状しました。
母はすかさず「悪いことをしたら、あやまらないかん。ちゃんと謝ってきなさい」と私を一人で
おんちゃんのとこへ行かせました。一人で行くのは相当怖かったです。

私は勇気を出して「おんちゃん、塀のブロック壊した。ごめんなさい」と必死で言いました。
おんちゃんは、珍しく厳しかった、「あぶないろう。もう塀に登ったらいかんぞね」
「うん」と言いながら、私の目は涙でいっぱい。自責の念から解放された安心感。
そして、厳しさの中に、私を思ってくれるおじちゃんの気持ちに、なんとも言えない優しさと
ホッとした気持ちと、大切に思われる嬉しさと、いろんな気持ちが混ざった涙がいっぱい出ました。

私はその日以来、塀越しにおじちゃんちに行くのをやめました。
それからも、おじちゃんは優しくて、美味しいものをいっぱいくれるし、膝の上にだっこしてくれるし、
もちろん、オプション付きご挨拶もしっかり続きました。

小さい私を育ててくれたのは、隣のおんちゃんの優しい笑顔です。
もちろん、おんちゃんはお星様になっていますが、今もよく思い出します。

おんちゃん、ありがとう。

今日も最後まで読んでくださり、ありがとうございます。

合掌✴️田村千賀



4月17日(日)旅広場

4月17日(日)こんにちは。今日は、旅広場について書きます。

「旅広場」高知駅の前の三志士像の背中のところにあるイベント広場。
オープン当時は、「おもてなし勤王党」や「旅広場専属よさこい隊一無尽」さんとかが、毎週末
パフォーマンスを披露して、たくさんの人で賑わっておりました。
「おもてなし勤王党」は2011年〜2015年まで。「おもてなし海援隊」は2016〜2019年3月まで。合計8年間。
おもてなし隊が旅広場からその姿を消してからは、週末のよさこいや、いろんなイベントが開催されています。
2011年からスタートしたということは、なんと10年経つということですね。
早いな〜〜。

今日は、久しぶりに旅広場に行ってきました。よさこい「祭三代・IKU!」のMCをしてきました。
久しぶりに行った旅広は、以前よりお客様も少なかったのですが、青空のもといろんな人たちが、
集っていました。

小さなお子様を連れたご家族。よさこいとの音楽と一緒に、全身で踊ってくれました。
高知に来た方、そして、高知から帰る方、足早に駅に向かう方、
日向ぼっこする方、誰かと待ち合わせの方、いろんな方がいました。

龍馬さんと、慎太郎さんと、武市半平太さんの三志士像は、じっとそこにたち、
この風景を眺めているのだなあとその背中をしみじみと見ました。

まさかコロナでこんな時代が来るとは、きっと龍馬さん達も思いもよらなかったことでしょう。
龍馬さんたちが生きた時代から、高知の街は、どんなに変わったのでしょう。
街はもちろん大きく変化したと思いますが、人々はどのように変わったのでしょう。
じっと立ってその目は未来を見ているのでしょうか。

空想ではなく、本当に実在した方々です。そして、龍馬さんたちの活躍があったから今がある。
あの時代と今をつないでくれているのは、なんだろう。
そして、私たちがつないでいくものはなんだろう。

おもてなし隊のセリフの中には、「志」という言葉がたくさん出てきました。
そういえば「志」って最近聞いてないような気がします。
昔は、「青年よ大志を抱け」とか「志」という言葉をテレビとかでもよく耳にしていたように思います。
私の思い込みでしょうか。

大きく時代が動いた幕末。今もまた何かしら大きく時代が動いているような気がしてなりません。
混沌とした時代、長いトンネルの先に一筋の光を求めて進んできたようなこの2年半。
まだまだ先の見えない社会。
龍馬さんたちの背中越し見える土佐の青い空は、
いつの時代も今日のように「青い空」だったのでしょうか。

「鳴子」の音を聞きながら、龍馬さんの肩越しに見える空を見上げた午後でした。

暑かったです。

今日も最後まで読んでくださりありがとうございました。

合掌✴️田村千賀