4月11日(月)「よさこい」について

4月11日(月)

おはようございます。今日は「よさこい」について書きます。

盛大に賑やかな高知の「よさこい」がその姿を消して、丸2年。
よさこい祭りがあるのが当たり前の日常から、よさこいがなくても過ごせる日常が増えてきました。
まさか、こんな形て「よさこい」が止まるとは、本当に予想だにしなかった。
起こることには意味があるというのなら、この現実から学ぶことがあるという視点に気持ちと頭を切り替えて
ちょっと考えてみましょう。

よさこい祭りが止まってわかったこと。
(あくまで私の個人の主観です。(笑))

①「よさこい」は何より元気の元でした。体力的にも、精神的にも.
年に一度よさこいの時に会えるよ「よさこい友達」の顔は暑い太陽に照らされ、
みんなキラキラと輝き、「元気?今年も会えたね。最近どう?」って会話しながら
心のパワー充電できました。

毎日踊る生活が約2ヶ月続く。1年も6分の1は、猛練習。
1年間ためた全身のコントロール不可の余分なお肉たちもよさこいで消すことができた。
踊りがハードなチームでは、まるでコートを脱ぐように痩せていく踊り子さん達を尊敬の眼差して
眩しくみて、その努力に頭が下がったものでした。

なのに、よさこい祭りがない…。
運動量が急激に減ってしまった。ジムに行くとよさこい人によく会います。
先日久しぶりに東京のチームに行ってみたら、よさこいが止まった間にジムでめっちゃしまった体になっている方
も何人かいました。(素晴らしい〜〜)

ジムは一人で黙々と、自分と向き合いますが、よさこいは自分とも向き合いますが、誰かと繋がりながら
自分と向き合うという面もあります。
これは、時には人生の宝物に出会うこともあります。
よさこいがきっかけで結婚した方もたくさんいるし、一生の友達となったという方もたくさんいると
思います。人と繋がり、知らない自分を知る。こともできた。
まさに人生においてかけがえのないステージになっていると思います。

②「よさこい」の経済効果
よさこい祭りは、高知の経済を大きく回していました。
ホテルなどの宿泊関係、飲食、地方屋さん、衣装さん、音響さん、鳴子屋さん、バス屋さん、
お弁当やさん、照明さん、氷屋さん、きっとタクシー、他にもいっぱい。

もう書ききれませんね。よさこいがどんなにすごいお祭りだったか、本当に身にしみます。
たくさんありますが、私は1番は、町に「元気」がなくなったことです。

よさこいがなくなって、よさこい公害(混雑、騒音などなど)がなくなったことは確かにいいことがあったと思いますが、それ以上に町に「元気」がなくなったことが、私は気になります。

「元気」は「元」の「気」エネルギーの元です。

高知の先人の皆さんの「ふるさと高知を元気に」との強いの思いで始まった「よさこい祭り」。
そこには、高知への熱い思いと、人々が元気になりますようにとの世界共通の「愛」が込められています。
その思いのバトンを次世代へ繋ぐことが一番大切にしないといけないと強く思います。

よさこいがないと生きていけないという感覚から、よさこいがなくても生きていけるに感覚が変わっていくのは、
この状況では自然なことなのかもしれません。
どんなに寂しくても、受け止めるしかない時代の変化かもしれません。

でも時代を作っていくのは、「人の思い」なのではないでしょうか。
よさこいに込めた先人の「思い」は、一時は消えたかのように感じられても、
心の種火は消えることはないと信じています。

よさこいが始まってたった70年弱で世界の祭りとなりました。
どこの国でも「よさこい」は国境、言葉を超えて「共通語」になった今、
どんなに悲しい現実があっても、いつかは心に燃えているよさこいの種火が、世界に「元気」をとり戻す
愛の種火になることを信じています。
そのために、自分の中にある「よさこいへの思いの種火」を大切に灯し続けていきたいと思います。

よさこい万歳!!!

今日も最後まで読んで頂き、ありがとうございます。

合掌✴️千賀





4月10日(日)「直感」について

みなさん、日曜日をいかがお過ごしですか?
さて、今日は「直感」について書きます。お付き合いください。m(^^)m

みなさんは、「直感」ってどう捉えていますか?
唐突にそんな聞き方されても????? ですよね。

「直感」って「ひらめき」という言い方でも表現できるでしょうか。
どうしようかな〜、どんなふうにしようかな〜って考えた時に、自分の中にフワッと浮かんできたり、
ピカ〜んて思いついたり。
今日、ここで書きたい「直感」はそんな「フワっ」や「ピカ〜ン」です。

いちいち「直感」とは捉えなくても、そんなひらめきや思いつきは、1日に何度もありますよね。

今までの人生を振り返ってみると、人生を大きく左右する局面でも、この「直感」に沿って道を選ぶようにした方が
後々、いいことに繋がるように思います。

ただ、「直感」が働いた時、すぐその後に「でも〜〜〜、」とか、「〇〇にダメって言われるよな〜」とか
色々考えてしまって、「直感やひらめき」を素直に選ばない時もあります。
今までそんなこといっぱいありました。
こんな事書いたら「変な人」って思われるがやないろうかって思ってしまう私もいます。
でも最近は、そう思われても「直感に従うことの凄さと直感の意味やシステム」を理解してきたので、
自然に「直感」に従って行動することが多くなってきました。
そして「一度しかない人生やもん。残り少なくなってきたし、どう思われようと信じた道を行きたい」
年齢を重ねるごとにそう思う気持ちが強くなってきた最近は、迷いなく直感直行便です。(笑)

===ここでちょっと脳のお話======
大脳には、右脳と左脳がありますね。
右脳は、イメージや感覚、記憶力、想像力、インスピレーション、ひらめきなどを司る脳です。
左脳は、言語や計算力、論理的思考、を司る脳です。

よさこいの振り付けで考察してみましょう。
例えば、音を聞いて動きのイメージが浮かぶ(直感/右脳)
このイメージをどのように現実にしていくか(チームのメンバーの人数、年齢層、好み、できることなどを考慮して整える/左脳)
いちいち意識はしていませんが、文字に起こすとこのように、大脳を使ってやってるわけです。
=====================

では、この「直感」はどっから湧いてくるのでしょう。
私は「宇宙の叡智」から湧いてくると感じています。
宇宙は、無限のアイデア箱です。ここにアクセスして必要なものを直感としてドシドシ下ろしているのだと
思っています。それをこの現実にするときに、どのようなものにするのかは、左脳で調整しています。
現れてくるものは、人それぞれの持っている感性(センス)でしょうか。
この感性を磨くのは、いろんなものを見たり、出会ったり、なんでもいいので「感動」体験を積み上げる感じです。
「あの人のセンスすき」とか「あんな感性もあるのか」と感心したり。
私は、大村先生の作る踊りの世界観は、いつも独特で興味深く感じます。
私にはないものを見せてくれて、何かひかれるものがあって、いつも目が離せなくなります。

また時々、「千賀先生どうやっ振り付け考えゆうがですか?」って聞かれると
「すいません。私がアイデアの泉にアクセルしてるだけなんです。」と答えます。
「直感」はすごいパワルフだし、早いです。
そして、何より楽しい。

「直感・インスピレーション」

みなさんは、この直感をどのように使っていますか?

今日も最後まで読んでくださりありがとうございます。

合掌✴️千賀



4月9日(土)おひねり

4月9日(土)

おはようございます。今日は、「おひねり」について書きます。

そういえば、最近「おひねり」って聞きませんよね。
小さい子には「おひねり」ってなに??って聞かれるかもしれません。

ちり紙(昔はティッシュとは言ってなかった(苦笑)紙は箱に入ったりしてなくて、
四角いハンカチくらいの大きさで束ねた形で売ってました。
それはまだ、世の中が和式トイレだった頃。ちり紙が主流でした。)

そのちり紙に5円やら10円を包んで紙をひねって、宴会や舞台で演者によかったよ〜と
お客様が飛ばしてくれます。
たくさん「おひねり」が飛ぶと、演者もノリに乗ってさらに素晴らしいパフォーマンスになり、
会場が盛り上がる。これは昔は普通の風習だったと記憶しています。
(違うかな?)

私がこの「おひねり」を初めて体験したのは、小学4年生くらいの時の日舞のおさらい会でした。
4歳から小学5年生まで、日舞を習っていました。
「あんたは、姿勢が悪いから日舞を習いなさい」そう母に言われて確か土曜日に習っていました。

親に言われて始めたことは、とにかく不真面目でした。
(今では、よく習わしてくれたと感謝しています。よさこいにおおいに役立っていますから)
私は、やんちゃで動き回る子供でしたから、先生もさぞ手を焼いたことでしょう。
とにかくサボりたかったので、お稽古に行って、自分の順番が来るまで、
お稽古場の隣にある広場で遊び倒して呆れた先生が何度か、
「もう今日は稽古なし」と見逃してくれました。
おおらかで厳しい先生でした。
スリッパも飛んできたし、お扇子でパシっと叩かれる事もしょっちゅうでした。
昔はどこでもそのように教えてくれていましたので、むしろ何もないとみすてられたような感覚になって、
かえって必死でお稽古したりしました。

発表会は「おさらい会」として年に1回は、いのの簡易保養センター?
(その頃はそう呼んでいましたが、そう簡保の宿です)
で、ありました。大きな座敷の広場に少し高さのある舞台がありました。

それまでは女舞(おんなまい)ばかりでしたが、小四の時、
先生が「千賀ちゃんは、元気がえいき男舞をやってみるかね」と言って下さり
「やっこさん」を教えてくれました。
その一言でやる気になった私は、初めて日舞楽しいと思いました。

そして、本番当日、思いもよらぬ「おひねり」が!!
白いちり紙がいくつか飛んできました。

「や〜〜〜〜〜、おひねりや〜〜〜〜〜、私にもきた〜〜〜」
心で叫びながら、緩む口元を必死にこらえ、顔色を変えないように気を付けて、
キメポーズに力がはいったことを今でもよく覚えています。

「おひねり」を飛ばしてくれたのは、私の知らない方でした。
でもきっと私が知らないだけで、母のつながりとか、一緒に習っている皆さんが
私に花を持たせてくれたのだと思います。

でも当時の私には、ものすごく嬉しかった。親でも親戚でもない、知らない大人の方から褒められる。
ものすごく気持ちよくて、やってよかったとか、他人に認めてもらう自己肯定感の心地よさを
初めて体験した瞬間です。

「おひねり」は係の方が集めて下さり。5円やら10円やらで100円くらいありました。
当時(バナナパンが30円でした)の小4にしたら、100円は大金です。
駄菓子屋に10円をもらっていってたから、10回もいけるわけです。
しかも今思えば、現金もらうってすごいですね。
「おひねり」は芸事でお金を稼ぐということを体感したんだなあと、
今にして思えば貴重な体験です。

ステージを降りて母のところに戻ろうとする私に、どこかのおばさんが
「あんたの踊りなかなかよかったぞね」と声をかけてくれました。
「おひねり」で最高の気分の上に、この一言は、俄然私のやる気を起こしたのです。
「みきちゃん(友達)みたいに、私は上手じゃないと思うちょったけど、私もいけるかもしれん」
そんな気持ちになって、それから日舞を前より真面目にやるようになりました。

誰かに認められる。これは本当に成長につながる。

今年のリトルもコロナを考えて迷ったあげくお客様の「お見送り」を遠慮させて頂きました。
しかし、次回こそ!!!「お見送り」をやります。
この時間が、一番のご褒美の時間ですものね。

も〜〜〜〜〜、ニックきコロナめ!!!!
私たちの一番大切なものをすべてもぎ取ってからに〜〜〜〜〜。

でも無くしてみて初めてどれだけ貴重なのかがわかりますね。
コロナで失った時間は、人にとって何が大切なのかを、もう一度考えさせられている
時間のように思います。

人と人の温もりを感じること。それを大切にできる、時間、もの、こと、を慈しんでいきたいと思います。

「おひねり」なんらかの形でやれるといいな。

今日も最後まで読んでくださり、ありがとうございました。

  合掌✴️千賀



4月8日(金)ランドセル

4月8日(金)

おはようございます。今日はランドセルについて書きます。
まさに「新学期」です。
昨日は各学校で入学式や始業式がありました。
FBにもピカピカの入学式の記事が並んでいます。

新学期といえば「ランドセル」
大きなランドセルを背負って一生懸命歩いて学校へ行く小学1年生。
本当にかわいい。夢や希望に溢れてランドセルが可愛く揺れています。

最近のランドセルは色とりどりになりましたね。
私たちが小さいときは「赤」と「黒」
それ以外…「エンジ」があったかな?それも学年に一人くらい。
エンジのランドセルを見たとき、私は、え?あんな色のランドセルってあるが?
しかもそんなの持っていいが?そう思ったことをよく覚えています。

いつ頃からランドセルの色が増えていったかは記憶にないですが、
それだけ人の価値観が進化してきているのですね。
「赤」と「黒」のランドセルが当たり前。みんながやってることが当たり前。
それが少しずつこれもありじゃない?それぞれ自分の好きな色を持っていいんじゃない?

ずっと昔の日本は、お見合い結婚が主流で、恋愛結婚は珍しい時代もありました。
でも今では、ほとんど恋愛結婚です。社会の価値観が個々の価値観を尊重して社会を形成するように
社会全体の意識が進化してきました。
今は、ジェンダーという言葉も登場し、その社会意識はますます進化していっていますね。

最近、その変化にちょっとついていけないなあと感じることもあります。
このまま個々を大切にしていって全体はどうなっていくんだろう。
と少し不安になります。
みんなで一つのことに集中していこうとする時、なかなか人が揃わない、集まらないという現象は、
村祭り、町内会、学校、サークル、習い事、いろんなシーンで、見られるようになりました。
何がなんでも集まらなくちゃという意識は、昔より薄くなってきました。

意識の変化、時代の変化なのでしょうか。諸行無常。全てのものは常なるかなですね。

私たちが若い頃は、みんなでやるときは、みんなで一つになる、そして心を合わせて高みへ登る。
その意識が強かったので、みんなでやることの感動も深く高みへ登っていった記憶があります。
若い感性の時代だったからそう感じたのかな?
今の子供たちも一致団結してはいますが、一致団結した時間も、充実度も私が経験してきたものよりは
薄く、浅くなってきているように感じます。

これは、私が年をとってきたからそう思うのでしょうか?
皆さんはどう感じますか?

今の子供たちは、充分に体験していて、私たちの感じ方と違うだけなのかもしれません。
ここです。私たちは経験しているからそれがいいと思って一生懸命伝えようとしていますが、
子供たちは今の社会で充分やっているのかもしれません。

でも、私は心の充実度という観点からいうと早く生まれてよかったなと
感じることがあります。
今の時代を生きる子供たちのことを思うと、私が感じられた素晴らしい感動を
伝えたいと思うのですか、それは私のお節介でしょうか。

みんなで集まることが難しい社会になっているのに、そんなことは必要ないのかもしれません。
おじいちゃん、おばあちゃんが口うるさく言ってくれた言葉。
今頃になってどれだけ大切かわかります。

しかし、今口うるさいおじいちゃん、おばあちゃん、大人もどんどん減ってる。
それは、子供たち、若い世代にとって良いことでしょうか。

日本は、昔、家族があり、近所があり、地域があり、学校があり、社会があり。
大きい社会へ行く手前に、小さなコミュニティが、あっちこっちにありました。
そこで、親以外の大人に育ててもらった。
親のおこごとは聞けんかったけど、隣のおじちゃんのは、きいた。
そんな記憶がたくさんあります。

今の子供たちの小さなコミュニティは?
学校?学童?習い事?

携帯ができ、小さな子供もスマホを見て時間を過ごす今、
人と関わる時間が急激に減っていますね。
人と関わり合うのはめんどくさいこともありますが、
関わることでしか手に入らない幸せもあります。

ランドセルの話から話が広がりましたが、ランドセルは「赤」と「黒」
から「カラフルランドセル」の時代へ。
お互いを認め合う、個々を大切にする、そしてその先にある
私たちが住みやすい社会を今の価値観でどうやって作っていくのか?
いやいや、今も住みやすい社会だけど、私自身がそう感じられないのか?

いろん時代をいつの間にか生きてきて、振り返った時、60を迎える今、
どう伝えていけばよかは私にとって本当に大きな課題です。
 
皆さんは、どう思いますか???(微笑み)








4月7日(木) 表現について

おはようございます。

今日は「表現」について書きます。

「表現」は「表」に「現す」と書きます。
と言うことは内にあることを外に出すということですね。
では、まずは内にないとどうにもなりません。
生まれてから、五感と言うアンテナを使って、いろんな事をキャッチします(感受性)
その感覚を現す「言葉」「表情」「ニュアンス」を体験を通して自然と学んで人は成長していきます。
と言うことは、気持ち悪いよ〜と泣いて、もう勘弁してよとおしめを変えるのか、
はたまた、あらあら、生きてるね〜、かわいいね〜、よしよし、などと声をかけながら「愛」を持って
おしめを変えるのか、大きく違ってきますね。
(いいとか悪いとか評価をしているのではないので、年ため注釈しておきます。
 もう勘弁して〜と変えることだってあると思います。そして、子供はまた学ぶのです。
 こういうこともあるんだなって。お母さんどうしたのかな?って。
 大人だって人間です。子供にひたすら会わせて自分を押し殺すのではなく、
 イライラする時もあれば、優しくできることもある。
 それを通して子供は「人」を学んでいるのだと思うのです。
 大切なことは、子供と出会えた感謝を忘れないでいられたらそれでいいと私は考えています。
 子供はみんな、親を選んで生まれ、親を喜ばせたいと一生懸命思っているのです。
 生まれたばかりの赤ちゃんでさえ、心があり、ただそれを伝えるすべがない。
 本当になんでも直にわかるお母さんのお腹から当然外へ出て、体は思うように動かないし、
 目は見えない。どれはど〜すればいいんだ〜〜。ってなってるんじゃないかな。
 って私は思っております。(笑))

親との関わりの中からたくさんの表現の種を内側に体験値として蓄積していくのです。
それらの種を組み合わせてどう踊るか、どう話すか、どう書くか、どうか奏るか、これが「感性」です。

感性は、人それぞれの彩(いろ)を持ち、その彩が舞台の上で、存在して美しい絵もようになったり、
綺麗な新しいいろになったりするのが、ステージだと考えています。

それを見に来た、たくさんの彩のお客さまが拍手や反応を消してくれます。
それにまた反応すると会場の彩は素晴らしいものになっていきます。
たくさんの感覚が動いて「感動」。この「感動」体験が心を育てるのだと思います。

よいお手本のような応対が必要なのではなく、時には残念な応対でもそこから学ぶ。
両方が必要です。苦がなければ、感動も愛も深まらないと思います。
むしろ、辛い思いや嫌なことは、自分の進化に一番大切なきっかけとなる。
どうしてそうなったの?
原因があって結果がある。因果応報。なら自分か嫌だなと感じるような態度を取られるときは、
自分の何かが原因なんだと思います。
その何かは、なかなかわからないですけど。
でも探せば必ず見つかります。

そう「表現」とは生きることそのものだと思います。
そして、いい悪いと評価することよりも、まずはやってみる。
それをそのまま受け入れる。良くないとかはそん次のこと。
表現の質を上げるためには、その先がまたありますが、それはまたの機会として。
とにかく「表現」することに、「不安や、ちゃんとできんといかん」とか「できんかったらどうしよう」
子供に、そう思わせない大人であるよう努力したいと思います。

私も、そんな大人になれるように、目下修行中です。
引き続き、よろしくお願いします。

今日も最後まで読んでくださいまして、ありがとうございました。

                                           合掌✴️千賀